私たちの生活は時間で区切られる。9時に仕事が始まるとすると、9時以前に職場にいなければない。8時には電車に乗る、7時には朝食、6時半には起床、といったふうに、朝の生活が決まる。そして9時には、決定的な線が引かれて、少しでも遅れたものは、遅刻と扱われる。このように、人間の生活は、いろいろな時間に区切られていて、自分の生活をそれらに間に合うように調整することが、一人一人の務めになっている。

 聖書のなかでも、時間が極めて重要な役割を持つ。いくつかの時間に区切られ、その間に歴史が置かれているのである。初めてこの世に時間の区切りが引かれたのが、天地創造である。光の創造とともに昼と夜が分けられて、時の刻みが始まった。
光の創造に始まったこの世の歴史は、さらに来るべき今一つの時間の区切りを待ち望んでいた。救い主が来て、人間の救いを成就する時である。この二つの区切りの間を旧約の時代と呼ぶ。この間に起こったことも、語られた預言も、すべて、イエス・キリストの来たるべき時を指し示す。

 キリストの到来と、十字架のキリストの死による贖い、そして、キリストの復活による完成とともに、新しい時代の区切りが始まった。これを新約の時代と呼ぶ。罪のゆるしが、キリストを信じる信仰によって、神から与えられる時代である。
もちろん、この時代にも終わりがくる。すべてのものをさばくために、キリストが再臨し給う時である。

 この時代に関して、次の特徴を見ることができる。
一つめ。再臨の日はいつ来るかわからない、ということ。
二つめに、その日は必ず来る、ということ。人間の思いのみからだと、来ることがなさそうに思われても、これは神がご自身で定められた時であり必ず来る。
三つめに、その日は近づきつつある、ということ。時は一瞬もとどまらない。時の流れは、水の流れに喩えられるが、時はそのように、いつも動いている。動いているからこそ、神の定められたときが近づいてくる。一日すぎれば一日だけ、一週間すぎれば一週間だけ、その日に近くなっている。

 これらの三つのことは、私たちに何を伝えて、何を求めているのだろうか。今日与えられた聖書、マタイによる福音書25章1~13節から確認しよう。
この聖書箇所で、なぜ五人のおとめたちは愚かで、五人のおとめたちは賢いとよばれているか。それは、準備が整っていたか、怠っていたかによる。
花嫁の友がともし火を持って花婿を迎えるのは当然の習慣だった。また、花婿がやってくる時間までは知らされていないことが通例だった。だから、花婿の来る時間を知らなかったことが問題ではなく、必要な準備を整えずに眠ってしまったことが問題なのである。
花婿が来ることは十人皆が知っていた。しかし、花婿が来るのが遅れたために、油断があった。

 「天災は忘れた頃にやってくる」と言われるがいざ起こってみると、単なる天災のみとは言えず、油断のゆえの人災が伴うことがしばしばある。3・11も地震や津波による深刻な被害があり、多くの方が亡くなり、そして被災された。更にその後の放射能汚染による二次災害の甚大な問題が続いた。

 一方、人間には環境に順応する性質を持っている。東日本大震災後、東京の街の夜は、真っ暗ではないものの、大変落ち着いたものであった。その年の表参道のその冬のクリスマス前後のイルミネーションは、電球数が3分の2に減らされ、時間も夜9時までに限定された。私はその明るさに慣れ、このぐらいでいいかと感じた。しかし、今やすっかり元通り、いや、それ以上の輝かしい煌びやかなLEDでの明るさが戻ってきた。そして、再び東京の都心は不夜城の態である。今度はこの明るい状態にすっかり慣れてしまった。

 キリストが来る、再臨の日が近い、とは初代教会ではよく聞かれた言葉であった。しかし、そのあと、再臨を見ぬままに2千年の時が去った。これは人間が慣れるためには十分すぎるほどの時間である。しかし、慣れてしまって、再臨はまだまだ遠い先のように思い込んでいるならば、それは違う。終末を、今生きる私たちの生活に類比して考える必要があるのである。

 愚かな五人のおとめたちは、婚宴の喜びの席から閉め出された。これは準備を怠っていたことに対するさばきであると言えるし、花婿が来ると聞いていながら、そのように生活を整えようとしなかった不信仰である、とも言うことができる。キリストの再臨について、二つのことを考えることができるのである。
一つは、罪に対するさばき。今の世界を見るときに、至るところに、人間の深いところに根差す罪の現れを見ることができる。憎しみ、争い。それは人間の間のみでなく、家庭、学校、会社、社会、そして、国家間にまで広がる。人間は欲望に身をまかせてしまう傾向がより大きくなっているように見える。だんだんと自己統制すらできないひとりひとりになってきている。聖書が神の教えを説いたとしても、キリストが十字架にかけられても、世は、神の招きに対して反抗し続けているように思われる。今、この時の終末とは、そのような罪の世に終止符が打たれる時である。福音を信じようとせずキリストに背き続けるものは、花婿が来ることを知りながら、油を用意してなかったおとめに等しい。キリストの再臨とともに、神の国がおとずれた時、その国から閉め出されてしまう。

 しかし、ここで二つめのことを考えなくてはならない。不信仰者は入ることができないことが、決して神の意志の望みではないということである。神の御心はすべての人が救われることであって、キリストの十字架もすべての人の贖いのためだった。
このたとえ話が、さばきの言葉で終わっていないことに注意しなければならない。
「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時をしらないのだから。」とは、人が救いからこぼれ落ちることをよいとはされない神の御言葉である。愛の神は、キリストによって、すべての人の贖いを成就されてから、すべての人をこの救いへと招き給う神である。さばきの言葉も、滅びの預言も、最終的な目的は、人間の救いにあるのである。これは、わたしたちが御言葉を聞くとき、常に意識しなければならないことなのである

 では、再臨を迎えるための霊的な準備とは、どのようなことを意味するのだろう?
第一テサロニケ5章によると、次のようなことばが含まれる。「目を覚まして慎んで」いること。本気で警戒していることであり、今を生きることである。
二つめに、「光の子のように歩く」こと。私たちは暗闇の中、手さぐりで皆目見当のつかないような生活を生きているのではない。キリストは、罪の闇から私たちを解き放ってくださったではないか。私たちの行く手は、神の国を目指すものであるということが、みことばに明かに示されているではないか。
三つめ、「信仰と愛を身にまとって生きる」ことである。キリストを信じることは、救いの根本である。光の子であることも、目を覚ましていられるのも、信仰にはたらく神の力による。神を愛し、人を愛するとは、神のさだめられたことの根本である。神を信じる者は、愛に生きる。

 さばきの警告も、予告も、すべて聞く人が悔い改めて新しく生きることにより、さばきの必要がなくなるためなのである。そのような神のもとにあってこそ、私たちには、前途に限りない希望を持つことができる。御言葉を聞いたのならば、今こそキリストを信じる時である。主の日は近づいている。もしキリストによる希望を持つのならば、このキリストにある福音を、広く世の中の人々に伝えるために、今、自分ができることを求めよう。

 神を愛するならば、人の救いを望み給う神の御心を、自分の心の願いとすることができる。主イエスをわたしたちのところに送ってくださった神が、私たちを捨てておかれることはない。「目をさましていなさい。私は来る。」その望みをもち備えつつ今に生きようではないか。