私は月に一度、説教を担当させていただいています。今月から、一つの書についての講解説教の形をとることにしました。マルコによる福音書を取り上げます。
今日、その第1回として取り上げるのは、マルコ1章1節から11節です。この聖書箇所を3つの部分に分け、それぞれからメッセージを聞いていきます。

3つの部分
第1の部分は、1章1節です。
第2の部分は1章2節から8節です。
第3の部分は、1章9節から11節です。

1-1 イエスがキリストである、それが明らかになった!
まず第一の部分1章1節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。「福音」とは「良い知らせ・喜びのニュース」という意味です。何が喜びのニュースなのでしょうか。

それは「イエスがキリストである、それが明らかになった」ことです。キリストとはヘブライ語でメシア、「油注がれた者」「救い主」を意味します。つまり、「イエスが救い主であること、それが明らかになったこと」が「福音」なのです。しかも、「神の子」とあるようにイエスは単なる救い主ではなく、神の子だ、と言うのです。
マルコ福音書の最後のほうにある言葉ですが、十字架上で息を引き取られたイエスに対し、ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったマルコ15章39節の信仰告白と重なります。

1-2 「初め」について
1章1節最後の言葉「初め」は、次の1章2節からの「洗礼者ヨハネ」の活動をきっかけとするものであり、そのことを指すとも考えられますが、必ずしもそう読まなくてもいいという意見もあります。マルコ福音書全部につけられた表題ではないか、とする考え方もあるのです。
つまり、「福音の始まり」という書き出しであり、旧約聖書の冒頭「初めに神は天地を創造された」を意識した、まったく新しい時代の「初め」を宣言した言葉として理解できます。
この1章1節では、そのような主イエスに対する確かな信仰が、告白されているのです。

2-1 洗礼者ヨハネの登場
続く第二の部分、1章2節から8節は「洗礼者ヨハネの登場」の記事です。冒頭の1章2節から3節は、イザヤの書の預言とありますが、正確には、1章2節は旧約聖書の一番最後に位置するマラキ書の3章1節の言葉です。
この世の終わりの日に裁き主が到来するが、その前に先駆者が来て裁き主の到来の準備をすることが、預言されています。また、1章3節はイザヤ書40章の言葉で、イスラエルの民が、バビロン捕囚から解放されて、故郷ユダヤに帰っていく途中の荒野において道を備えよと預言されています。
これはルカ福音書1章の洗礼者ヨハネに告げられる父ザカリヤの預言の言葉とも響き合い、救い主の先駆者としてのヨハネ到来の預言の言葉と言えます。

2-2 荒れ野とは、神と出会う所
そのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのでした。「荒野」は過酷な所ですが、神と出会う所でもあります。そのヨハネが「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたといいます。「悔い改め」とは、罪の中に生きていたこれまでの生き方、神に背き、自分のために生きた生き方から、神に向き合い、神のために生きる生き方への方向転換を意味します。そのしるしが洗礼・バプテスマです。バプテスマとは、「水に浸すこと・入ること」を意味し、「古き自分に死に、新しい自分に生まれ変わること」を意味します。このヨハネの元に、ユダヤ中から人々が集まり、悔い改めの洗礼を受けます。ヨハネは力のある預言者で、多くの人は、彼こそ待っていたメシア・救い主だと考えました。
しかし、彼は「私よりも優れた方が私の後に来られる。私はその方の履物に紐を解く値打ちもない」といい、自分の後に来る方こそメシアであり、自分はその先駆者だと証言します。ここには、旧約の預言と約束の成就としてメシアが到来することが語られ、メシア到来の先駆者としての洗礼者ヨハネの登場とメシアとしてのイエスの登場は、神の救いの計画の実現、預言の成就だと証言されているのです。

2-3 バプテスマのヨハネが指す先
この時の、ヨハネの態度をみたいとおもいます。「私よりも優れた方が私の後に来られる。」人々がユダヤ全土から洗礼者ヨハネの元を訪ねて来るのに、彼はひたすら自分の後からくるお方を指示します。
「聖洗礼者ヨハネ」という有名な絵があります。それはヨハネの指です。彼はむこうにある光を指し示します。

https://en.wikipedia.org/wiki/St._John_the_Baptist_(Leonardo) より引用

2-4 2つの洗礼の違い
ここで注意すべきことは「水による洗礼」と「聖霊による洗礼」の違いです。「水による洗礼」はバプテスマのヨハネの洗礼で、罪の赦しを得るために悔い改めて神に向き合い新たな生き方に方向転換するために行うもの、人間の決断によるものです。それに対し、「聖霊による洗礼」とは、そこに神の霊が働き、神の力・働きかけによって新たな人間に生まれ変わることを意味します。

3-1 イエスの登場

最後の第3の部分1:9~11は「イエスの登場」の場面です。そのようにして洗礼者ヨハネの登場の後、主イエスが登場されます。主イエスは、辺境の地、と呼ばれたガリラヤ地方の貧しい村ナザレの出身です。父の仕事である大工・石切の仕事をして一家を支えていましたが、ヨハネの存在により、自らの時が来たことを知り、救い主としての使命を覚え世に登場します。
その出発において洗礼者ヨハネから洗礼を受けられます。

映画『Son of God』より

しかし、なぜ、罪なき主イエスが悔い改めの洗礼を受けるのでしょうか。
それは私達と同じ罪人になるためです。そして、私達の罪を担い、その罪を赦してもらうためです。もう既にここに、十字架への道は始まっていたのです。十字架上で私達の罪を担い、その罪を赦す歩みがここから始まったのです。

3-2 ヨルダン川について
ヨルダン川は世界で最も高度の低い湖・死海に注ぐ最も低い川です。死海は海抜マイナス430メートルだそうです。その死海にそそぐヨルダン川で洗礼を受けたというのは、イエス様がこの世の最も低い所、どん底にいる私達のところに来てくださったことを意味します。それは神の御心に適うことでした。だから、この時、天から神の霊が降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という声が聞こえたのです。

3-3 神が主イエスを祝福された
ここで「あなたは私の愛する子」、「あなたは」と、2人称で神様が呼びかけることに注目しなければなりません。
マルコ福音書においては、神様が世の人々にイエスを紹介しているのではないのです。神が主イエスに向けて、洗礼を祝福し、語りかけます。この後の聖書箇所では、イエスが荒野で神様に向きあい、神様に出会います。そのイエスにここでは、神が直接語りかけているのです。