聖書箇所 マルコによる福音書1章40~45節

癒しではなく
主イエスは弟子を伴ってガリラヤの会堂で神の国の福音を宣べ伝えながら、病気の人を癒し、悪霊を追い出した。
ある日、主イエスのもとに、「重い皮膚病」を患っている人が来た。主イエスはその人を可哀そうに想い、清めた。
先月、2月28日に読んだ箇所にも、大勢の病人や悪霊に取りつかれた人々を主イエスが癒したことが語られていたから、本日のマルコ1章40節以下のこの話も、そういう癒しの業の一つと私たちは受け止める。
しかし、この話が大勢の人の癒しとは別に、単独で語られていることに注目しなければならない。特別な意味がこの出来事にはある。

新共同訳聖書の中には、「重い皮膚病」という言葉が使われる。以前は「らい病」と訳されていた。「らい病」は今日では、この病気の原因となる菌を発見したノルウェーの医者の名前に因み「ハンセン病」と呼ばれている病だが、聖書に出てくるこの病は「ハンセン病」とは違うものだと今日では考えられている。旧約聖書において「汚れ」とされているこの病が「らい病」と訳されていたことによって、「ハンセン病」の患者が差別され苦しみを受けてきた長い歴史への反省もあって、今では「重い皮膚病」と訳すようになった。しかしこの訳でもなお問題は残る。

「皮膚病」だと「病」の一種ということになるが、聖書においてこれは「病気」と言うよりもむしろ「汚れ」である。
だから本日の箇所に出て来るこの人も、主イエスに癒しを願ったのではない。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と彼は言う。癒されることではなく、清くされることを願う。ならばここに語られているのは、癒しではなく、汚れている人の清めの業なのだ。これまでの聖書箇所での癒しや悪霊の追放とは違う業が主イエスによってなされることが示されている。

汚れた者
「重い皮膚病」と訳されているこの事態が病ではなくて汚れであり、ここで起ったことが癒しではなくて清めであるということの持つ意味をさらに深く考えたい。レビ記14章は、モーセが神から伝えられた、この汚れから清められたことが確認される時の儀式を語る。14章2節~32節に、8日間に渡る清めの儀式の正規バージョンと、お金がなくて、必要な動物、物品が用意できない場合の廉価バージョンが詳しく説明されている。
主イエスがマルコ1章44節でこの人に「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言うのは、この儀式を行いなさいということである。この人が清められたことを確認するのは祭司である。汚れているか清いかを判断するのは祭司の役割だから。逆に、ある人を汚れていると宣言するのも祭司の務めで、レビ記の13章は、祭司はどういう場合にその人を汚れていると宣言しなければならないかが定められている。レビ記13章30節には、「症状が皮下組織に深く及んでおり、その毛が薄く黄色みを帯びているならば、祭司はその人に「あなたは汚れている」と言い渡す。」と
そして、汚れていると判断された人はどうしなければならないかが、13章45~46節に語られている。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」、と。
汚れていると判定されたら、その人は自分の汚れが人に移らないように、人に会うごとに「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならない。
そしてさらに、「その人は独りで宿営の外に住まなければならない」とあるように、人々の共同体の中にいることができない。これが病であれば、家族や仲間たちが看護し、治療がなされる。しかし汚れている者は、その汚れを人に移さないために、家族や仲間たちから切り離され、隔離されてしまう。そこに、汚れていると判定された人々の、病気とはまた別の、深い苦しみ、悲しみがあったのである。

「汚れた者」を作り出す罪
日本においてハンセン病の患者たちは、まさに同じように家族や社会から切り離され、療養所に隔離されて深い苦しみ悲しみを体験してきた。しかもこの病気の原因が分かり、特効薬が開発されて治る病となってからも長く国の隔離政策が続き、不当な苦しみを受けてきた。
1800年代後半は、ノルウェーでの事例をもとに、医学界で、強制隔離政策が推奨され、各国で島に隔離施設が作られた。
しかし、1941年にはアメリカで注射薬プロミンが開発され、そして、経口薬のDDSが開発され、ハンセン病は治りえる病気となった。その後は、隔離政策は徐々に衰退し外来診療が重視されていくことになった。その感染性は実は低いことが確認された。
その流れに逆行するように、日本では医者ではなく、警察の手によって、1931年に強制隔離政策、感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策が開始された。
この流れが大きく変わるのは2000年に入ってからである。
2001年(平成13年)5月11日に、熊本地裁は国の隔離政策の継続は違憲であると判断した。同年5月23日には、当時の小泉純一郎首相が政府は控訴しないと表明した。これを受けて、政府はこれまでのハンセン病政策に対して責任を認めて謝罪した。

長嶋愛生園の曙教会の大島牧師が『聖書のらいに取り組んで』というタイトルで、3巻の著書を2010年に出版されている。
新共同訳聖書のなかの、「らい病」に関係があると思われている単語の訳を「ツァラアト」にすべきだという主張がさまざまな角度から述べられている。
新約の方は、ギリシア語でlepraだが、これをレプラとは訳さないで、ここもツァラアトとすべきだという主張である。

なお、新改訳の第三版2014年の聖書だと、40節は「さて、ツァラトに侵された人が、イエスのみもとのにお願いにきて、ひざまづいて言った」
42節は「すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった」と訳される。
聖書のあとがきには次のとおり。「聖書のツァラアト」は皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり、それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかでないから」と説明し、「聖書が教える神のきよめの恵みを正しく理解するために「ツァラアトに冒された」という表現を適切に解釈する必要があろう」とさらに説明する。

主イエスに清めていただくことを求めてやって来たこの人がかかえていたのと同じ苦しみ悲しみを、ハンセン病の患者の人々は味わってきた。
しかしこの苦しみをハンセン病の人々に限られた苦しみと考えるのは間違いである。病ではなく汚れであるがゆえに生じる苦しみ悲しみは、様々な仕方で私たちの身近な所にある。
今日で、東日本大震災から7年経過った。
被災して、避難している家族や子供たちが避難先で受けている差別がいまだにある。彼らは、震災とその2次災害の被害者であるにもかかわらず、である。

東京電力福島第1原発事故に伴い福島県から新潟県北部に避難している公立中学1年の女子生徒が、同級生から名前に「菌」を付けて呼ばれるなどのいじめを受け、昨年12月中旬ごろからほとんど登校できずにいることが1月20日、県教育委員会などへの取材で分かった。
以下毎日新聞の記事から引用する。
「県教委などによると、女子生徒へのいじめは1学期の終わりごろから始まった。複数の生徒が女子生徒の名前に「菌」を付けて呼び、ばい菌扱いして鬼ごっこをするなどしていたという。女子生徒は避難後に小学校でもいじめを受けていた。
昨年12月中旬に女子生徒が保護者に相談し、保護者からの連絡を受け、学校側もいじめを把握。学校側はいじめに関与した複数の生徒を指導し、加害生徒と保護者は女子生徒の保護者に謝罪した。」
次は、少し前の2016年11月の朝日新聞の記事から。
「新潟県内では昨年11月、同じく福島県から避難している新潟市立小4年の男子児童が担任教諭から名前に「菌」を付けて呼ばれ、1カ月余りにわたって学校を休んでいた。」

このような、差別や偏見の例の枚挙にはいとまがない。

エイズももはや不治の病ではない。また予防が大切であることもわかってきた。これも、知ることや、偏見をなくすこと、その人の悩みに寄り添うことが大切なことを示す一例である。

体が痛むような深い怒り
このような苦しみ、悲しみからの救いを求めてやって来たこの人を、主イエスは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」たと41節にある。「深く憐れんで」と訳されている言葉は、「内臓」をもとにしているが、憐れんでは意訳であり、本来は怒りの表現のようである。主イエスはひとびとから排除されたこの人の状況に、自分の内臓が震えるような、肉体に痛みを感じるような怒りを抱き、そして手を差し伸べてその人に触れた。
今まで死人同様の不可触扱いされてきた彼にとっては、人間扱いされた経験であり、精神的には、それだけでも大きな救いだったことであろう。
「汚れた者」に手を触れるとその汚れが移ると考えられていたから、これは当時の人々にとって驚くべきことである。このような目に会わされている彼の境遇に、怒り、主イエスは彼の苦しみ、悲しみをまさにご自分の苦しみ、悲しみとして感じ取り、それを共に背負う。

御心ならば
ここで注目すべきは、この時彼と主イエスとの間に交わされた言葉である。彼は主イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。彼のこの言葉は、「お願い」ではない。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という新共同訳は原文に近い訳である。直訳すれば「もしあなたがお望みになれば、あなたは私を清くすることがおできになります」となる。これは、「わたしを清くして下さい」という願いではなくて、「わたしを清くすることができる」主イエスの力への信頼を語っている。「全てはあなたのご意志次第です」と彼は言っている。そして主イエスはそれに答えて、「よろしい。清くなれ」と言われる。ここも直訳すれば「私は望む。清くなれ」。
主イエスの意志によって彼は清くされたのだ。

主イエスの意志
ここに描かれている主イエスは、人間の願い求めに応えてその望む救いをそのまま与える方ではなく、ご自身の憐れみの心によって救いを意志し、それを与えられる方である。
それはこれまでの所に語られてきた、権威をもって神の国の福音を宣べ伝えている主イエスの姿と一致する。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言した主イエスが、その宣言に基づいて苦しみ悲しみの中にある者たちに対する憐れみと救いを望まれ、それを実現した。私たちができることは、この主イエスの意志を信じて、主イエスを通して神様の方に向き直り、その救いの業にあずかることである。
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と語ったこの人は、「悔い改めて福音を信じた」人の代表である。「主イエスは私を清くすることがおできになる」、という福音を信じた彼は、その福音を体験した。

社会への復帰=礼拝生活ができる
さらに、主イエスの意志が44節に示される。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。
主イエスの意志は、彼が祭司に体を見せ、清められたことを確認してもらい、レビ記14章に定められているしかるべき儀式を経て人々に自分が清められたことを証明することだった。レビ記14章の8節に、「清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる」とある。それまでは宿営の外で暮らさなければならなかったのが、宿営に戻り、家族や仲間たちと再び共に生きることができるようになるのだ。もはや「わたしは汚れた者です」と呼ばわり、人々を避けて生きなくてもよくなり、通常の社会生活に復帰できる。そして、汚れが清められ、再び人々と共に生活することができるようになったとは、民のひとりとして礼拝をすることができるようになった、ということである。つまり彼の社会復帰とは、礼拝への復帰である。神と共に生きる信仰の生活への復帰である。主イエスはそう望み、それを実現した。

「だれにも、何も話さないように」
44節で主イエスが彼に伝えたことがもう一つある。それは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」である。主イエスが彼を清くしたことを誰にも言うな、ただ祭司にだけ体を見せ、清くなったことを確認してもらいなさい、と主イエスは言った。また43節の前半には「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし」ともある。
45節からその理由が分かる。彼は主イエスのもとを立ち去ると、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」。主イエスが厳しく誰にも言うなと命じたにもかかわらず、「イエス様が私を清めて下さった」ということを彼は語らずにはおれなかった。

立場が入れ替わった
その喜びと感謝の中で、主イエスの業を人々に語り伝えずにはおれなかったのだ。それは救いにあずかった者としての当然の姿である。
主イエスに清めていただいた彼は、それまでは、汚れた者として人々から離れて、人々との触れ合いのない町の外で生活しなければならなかった。しかし今や、清められたことによって彼は町の中で、家族や友人たちと共に生活することができるようになった。多くの人々と触れ合うことができるようになった。だからこそ主イエスのことを人々に言い広めることができた。しかしそのことによって主イエスは「もはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた」。それは汚れた者がこれまで強いられていた生活です。汚れた者は「独りで宿営の外に住まねばならない」というレビ記の言葉を意識してこれは語られていると言えます。つまり、この清めの奇跡によって、「重い皮膚病」を患っている人と主イエスとの立場が入れ替わった。彼は町の中で人々と共に暮らすことができるようになり、主イエスは町の外の人のいない所にいなければならなくなった。そのことは、主イエスが、彼の汚れを、それによる苦しみや悲しみの全てを、彼に代わって背負って下さったことを表す。彼を清め、神様のみ前に出て礼拝をすることができる神の民の一人として回復された主イエスは、彼の汚れをご自分の身に背負われた。彼の清めは、主イエスが彼の汚れを代わって引き受けて下さったことによってこそ与えられたのだ。

主イエスの十字架によって
そのことは、主イエスの十字架の死において、私たち全ての者にも与えられている恵みである。主イエスは、私たちと神様との間を隔て、私たちが神様の民として生きることを妨げている罪と汚れを全て背負って、十字架にかかって死んで下さった。私たちの罪も、汚れも、それによる苦しみや悲しみも、十字架にかかって下さった主イエスが全て引き受けて下さった。この主イエスの恵みによって私たちは、神の民とされ、毎日曜に、神のみ前に出て礼拝をささげ、共に生きることができる。私たちの地上の歩みはなお罪と汚れの中にある。自らの罪や汚れによって様々な苦しみや悲しみを味わう。しかしそのような中で私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを信じて、主のみ前にひざまずき、「主よ、御心ならば、あなたは私を、私の罪と汚れから、そして苦しみや悲しみから、救って下さいます」と告白することができる。主イエスは私たちを深く憐れみ、手を差し伸べて私たちに触れ、「私はそれを望む」と宣言され、罪と汚れの苦しみ悲しみを取り除いて下さる。人を汚れた者として排除することによって仲間の結束を図る罪から解放して下さる。