『新しく生まれ変わる』 2 からの続き

聖書:コリントの信徒への手紙II 5章17節, 3章17,18節

幼虫から成虫へのメタモルフォーゼ
 ただ、先ほど見ましたように、聖書が言う、人間が造り変えられ、生まれ変わるその新しさには、カイノス、フレッシュ、という言葉が用いられております。そして、それは、どうも、「古いものとは全く異なる新しいものに取り替えられる」ということではなくて、「同じものでありながら、古い状態から新鮮な真新しい状態に変えられる」ということを意味しているのです。そのことを示す聖書の言葉が、先の聖句と同じ<コリントの信徒への第二の手紙>にあります<3 章 17~ 18 節>の言葉です。ぜひそこを御覧になっていただきたいのですが、そこには、
 「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光
へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」
とあります。ここで「造り変えられていきます」というギリシア語は「メタモルフォウメサ」という言葉です。小学校か中学校の頃、理科の時間に、昆虫の「変態」ということで「メタモルフォーゼ」ーこれはドイツ語ですがー という言葉を習ったことを、皆さまも思い出されることと思います。

 そうです、聖書が、神さまの霊の力を受けて人間は新しく造り変えられる、と言うとき、それは、今までの自分とは異質な new な者に取り替えられるのではなくて、この同じ私が今までの古い状態から全く fresh な状態に変えられていくことを、示唆しているのです。昆虫が成虫になった時、その姿は幼虫の時の姿とは似ても似つかないほど変化します。いや、「変態」します。メタモルフォーゼをやり遂げます。しかし、神さまにいただいた命はそのまま同じものです。私たちは回りの人がびっくりするほど変わっていいのです。しかし、それはまるで別人のように見えますが、どっこい、あなた自身なのです。聖書が教える「新しく造り変えられる」という人間の経験の勘所はそこにあります。

なぜ、キリスト教は「おっかない」のか
 日本人がキリスト教になかなかなじめない理由の一つに これは私の個人的な観察ですがキリスト教自体がまだ外国の宗教というイメージで、何となく「おっかない」という感覚があると思います。しかし、それ以上に、もっと内容的に言うと、キリスト教に入信すると、あまりにも突然、自分が自分でないものにさせられてしまうのではないか、自分離れ、人間離れ、日本人離れさせられてしまうのではないか、という恐怖感につきまとわれている、ということがあるのではないでしょうか。

 私は教会で 50 年以上、キリスト教大学では 35 年以上、学生だけでなく教職員の方々も含めて、未信者の方々に接してきました。そして、そういうイメージが日本人には強いのだなあと思わせられてきました。この礼拝に出席しておられる方々のなかで、自分はまだキリスト教徒ではないという方々もおられるかと思いますが、しかし、キリスト教のメッセージはけっしてそのような「おっかない」ものではないということを、ご理解いただきたいと思います。今お読みしました聖書の言葉そのものにありましたように、私たちは自分であるということを失うことなく、それでもその自分が新しく造り変えられていくのです。また、そのように変わっていってよい、ということを言うのが、キリスト教なのです。しかも、それは突然の変身でなくて、ゆっくりとした変化や成長でもよいのです。
『新しく生まれ変わる』4 へ続く)