『新しく生まれ変わる』 3 からの続きです。
聖書:コリントの信徒への手紙II 5章17節, 3章17,18節
キリスト教は「接ぎ木型」宗教
キリスト教という宗教は、その意味で、日本人にとっては、「根こそぎ取り替え型」の宗教ではなく、「接ぎ木型」の宗教だと私は考えております。日本人であれ何人 ( なにじん ) であれ、その人が培ってきた良い人間性というのは、神さまにつながったのちも祝福されるのであり、キリスト教信仰の中に受け止められて、生かされていくのです。
青山学院の源流でありますメソディスト・キリスト教の創始者はジョン・ウェスレーだということは、皆さま、ご存知です。じつはこのウェスレーが強調したキリスト教のメッセージが「新生」つまり人間が神さまの霊の力を受けて「新しく生まれ変わること」でした。戸山教会のアメリカの源流である「神の教会」Church of God もウェスレーのその教えを強調したアメリカの福音的な教派です。私も、戦後日本にやってこられたその教会の宣教師の先生の説教を聞き、洗礼を授かりました。そして、そのウェスレー自身が、「新生」というのはまず第一に神さまによって「短い時間」に起こされるわざであるが、しかしその後、信じた者が神さまによって清められていく過程は「徐々に魂の中に行なわれていく漸進的な業」であると説いております(ウェスレー説教「新生」S.II, 239-40. 野呂芳男他編訳『ウェスレーの神学』、115 頁)。これを「聖化」と言いますが、その漸進的なわざがメタモルフォーゼなのです。
「主と同じ姿に…」
ただ、先ほどの聖書の御言葉は、私たちはメタモルフォーゼされていくのだが、その目標、そのお手本に、主イエス・キリストの御姿がある、と述べています。「私たちは…主と同じ姿に変えられていく」――ここが難しいところです。私は洗礼を受けてキリスト教徒になり 50 年以上、按手礼を受けて牧師になり 40 年以上になりますが、家族から意見されて、グーの音も出ず、深く反省させられるのは、私たちが新しく造り変えられるのは「主〔イエス・キリスト〕と同じ姿に」ということだからであります。私たちの現実の姿はこの主イエスのお姿から何とかけ離れていることでしょうか。
主イエスは愛の人であられました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」<ヨハネによる福音書 15 章 13 節>。これを文字どおり実行して下さって、私たち罪人を友とし、その罪からの救いのために、その贖いのために自らの命を投げ出して下さった方であられました。生身の人間にこのことがいかに不可能なことであるかを私たちは知っております。人間がいかに罪深い者か、どんなにそれを語っても語り切れません。
しかし、主イエスのこのお姿と私たちの落差にばかり気を取られ、ため息をつくばかりでは、これも神さまが望んでおられることではありません。変えられることにひるみ、それを怠ることは、やめましょう。今、私にできることから始めましょう。例えば、そのための一つの目安は、私の回りにいる人々への私の態度を変えることです。月並みに聞こえるかもしれませんが、気になっている人への「思いやり」、その人に身になって考えてあげることです。その人への私の態度のちょっとした変更です。
たしかに、十字架の死に至るまで罪人への愛を貫徹された主イエス・キリストと同じ姿に変えられていくということは至難のわざです。しかし、それでもなお、私たちはそのお姿を目標に、恐れ多くとも、それに一歩でも近づくように、神さまの御霊の力によって変えられたい、変えていただきたいと、祈り続けたいと思います。それが神さまの私たちへの恵みのお招きだからです。
(『新しく生まれ変わる』 5 へ続く)