「裁く方は主である」10からの続き
あのご婦人が、「祟り」の観念を最大限に利用して信者獲得を図っているわが国における数々の新興宗教につかまらずに、キリスト教の「福音」にとらえられ、キリスト教徒になられたことは、本当に恵みでした。
そのご婦人に、お嬢さんの死にたいする明白な罪責の感情がおありになったのか、それともそれは何とはなしの負い目の思いであったのか、それは知る由もありません。しかし、いずれであったにせよ、教会に通い、聖書をと
おし、福音の教えに触れられた時、このご婦人にはそうした内面に引きずる感情からの解放感と安心感が与えられたのだと思います。そうして、その人生を立て直されたのだと思います。
私たちが自分の中にある罪をしっかりと認め、そしてその罪を告白し悔い改めることを願うなら、その罪は赦され、イエス・キリストによる救いのうちに入れられるのだと、聖書の神は私たちにはっきりと告げて下さいます。
余談ですが、刑務所で教誨師をなさっておられるある牧師のお話では、仏教、神道、天理教、金光教による教誨も刑務所ではなされているようですが、キリスト教の教誨を受ける受刑者の数が最も多いとのことです。ある受刑者から、「キリスト教は刑務所ではこんなに人気があるのに、なぜ娑婆では人気がないのですか」と質問されて、即答に困ったそうですが、十字架の出来事が強い印象を与えるのだろう、と言っておられます。私が勝手に付け加えれば、キリスト教の福音は、キリストの十字架の犠牲の死において、罪をはっきりと指摘し裁く神の義と、しかしそれをも超えてその罪を赦す神の愛とを、同時に示すからではないか、と思っております。
あのご婦人の娘さんを亡くされた後の悩みは、言わく言い難しの負い目の感情であったかも知れません。その時、聖書が私たちに教えるのは、神は人間の生き死にを、私たちの知るところ、推し量るところを超えて、導いて下さる真の神であられる、ということです。そして、人が人を裁いたり、あるいは自分さえも裁いたりすることは、本来してはならない、裁きは私がすることだ、と言って下さる神であられる、ということです。
「裁く方は主である」12へ続く