「裁く方は主である」11からの続き

 キリスト教には「裁き」はあるのだと申しました。しかし、それは私たち不完全で有限な人間がなす裁きではないのです。真の裁きとは、聖なる神のみが終わりの時に行なわれる裁き、「最後の審判」のことです。「愛する人たち、自分で裁くのではなく、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」<ローマ書 12章19節>。

 それゆえに、私たちは、人間の生き死にを含め、すべてをこの神にお任せすればよいのです。そして、私たちがこの世でなすべきは、この神さまによって罪を赦され、生かされている恵みを、感謝のうちに覚える中で、自らは人を裁くことなく、敵とも思える隣人とも「平和に暮らす」<12章18節>ということなのです。

 しかし、それも、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」<12章21節>という仕方においてであります。悪や不正が放置されてよいというのではありません。御子キリストの父なる神は、正義をないがしろにする感傷的な愛を示されたのではありません。そうではなく、正義を含みつつそれを超えるような真のアガペーの愛の恵みを示して下さいました。それによって私たちの罪を赦す真の救いの福音を示して下さったのです。

 ですから、私たちがなすべきは、自らの罪を認め告白し、神がその正義に従いご自身の独り子を罪への罰として十字架上でほふられたという「痛ましい手続き」(植村正久)によって、この私の罪を赦されたという恵みに、深く感謝し続けるということなのです。

 そこで、私たちキリスト教徒が裁判員になった場合、このアガペーの福音に思いを致しつつ、この世での自らの人間的判断の不完全さをつねに念頭に置き、同時に全能の神の究極の裁きを祈りながら、謙虚にその責務を果たすのが良いのであろうと、私自身は思います。