「裁く方は主である」9からの続き

 第二次世界大戦の戦死者だけでも 213 万余の方々が祀られている靖国神社にも、あるいは戦後間もなく創設された他の戦没者慰霊の施設や仏堂にも、よく観察しますと、北野神社に類似した日本人の心情構造が見て取れます。
 簡潔に申しますと、自ら率先してそうした宗教施設の建立者や奉仕者の代表となったのは、殆どが生き残った陸海軍の最高指導者たちや大本営の参謀たちだということです。そもそも靖国神社の前身、東京招魂社の慰霊祭で祭主を務めていたのが、もともと、そうした人々でした。そして、ここに潜んでおります微妙な しかし、政治的に重大な 問題点は、これでは、戦争指導者が取るべき政治的責任も、宗教の名のもとに曖昧にぼかされてしまう、という部分です。

 靖国神社を国家で護持しようというような考えは民主主義憲法の政教分離の原則に著しく反するという考えから、それに反対するということも勿論重要なのですが、そのもう一つ奥にあります、今述べましたような死や死者にたいする日本人の隠れた意識や感情が、はたして宗教的な意味で健全なものかどうか、そのことを日本人自身が再考し反省してみるということがより重要であり、必須なことではないかと、私は思っております。それが糾されない限り、わが国ではこの問題は世代を超えていつでも噴出してくるものだからです。そして、そのためにも、私たちキリスト教徒が自らの信仰に堅く立ち、キリスト教の死生観や、現代の歴史にも関わる最後の審判の理解を、この日本でしっかりと訴え続けていくことが必要なのではないでしょうか。

「裁く方は主である」11へ続く