「裁く方は主である」8からの続き

 しかし、この『神道信条』に書かれていないことで、穢れを厭う、さらに、その穢れの最たるものとして死を忌むという、「死穢」という日本人に顕著な考えがあります。数年前、『おくりびと』という映画を見ました。死に化粧と死に装束に心を込める納棺士を描く映画でした。チェロ弾きの夫が、楽団が倒産し失業した後、思わず就いた仕事がそれだったのですが、後でそれと知った妻が「その仕事だけは辞めてほしい。汚らわしい!」と叫ぶ場面がありました。ここは私には、彼らがまだ若い夫婦だったこともあって、なおさら印象的でした。つまり、日本人にこの考えは深く染み込んでいて、今だに続いているということです。ただ、その映画自体のメッセージは、そうした日本人に染みついた考えを乗り越え、改めようとする清々しいものでしたが…。

 さて、その死穢を忌避する感情も相俟って、この世に留まる死者の霊を恐れる、さらに、その死にたいして負い目や罪責感がある場合に、その死霊による「祟り」を心底恐れる、身の回りに起こる不吉をすべてその「祟り」と考えるという、日本人にとくに固有な 死に関わっていますから「宗教的」と言ってよい 独特の心情が生じ、これが平安時代には頂点に達しまして、そこから今日まで久しく存続してきました。朝廷や貴族出身のそうした非業の死者を「御霊」と呼び、その祟りを鎮める宗教行為を「御霊信仰」と呼びました。しかし、一般にはこれは「怨霊信仰」と呼ばれております。その最も極まった例が、摂関家藤原氏が死に追いやった菅原道真の怨霊を、その藤原氏自身が鎮め弔い、さらには自分たちの守護神とするために建立した、京都の「北野神社」です。これがその後全国に勧請されて「天神様」、「天満宮」として広まったことは、皆さん、よくご存知です。

「裁く方は主である」10へ続く