「心の眼で見た言葉」 7からの続き
私の好きな「幼児さんびか」の一つに中田羽後という優れた讃美歌作詞作曲家が作られた「ぱらぱらおちる」という讃美歌があります。教会の方々はもちろん、キリスト教大学の児童教育学科やキリスト教系の保育専門学校で学ばれた皆さんは知っていらっしゃるでしょうか。その第一節はこうです。「ぱらぱらおちる雨よ雨よ ぱらぱらぱらと なぜ おちる かわいた土を やわらかにして きれいな花を 咲かすため」。きれいな、わかりやすい詩です。第三節も第四節も同じようにわかりやすい、かわいらしい詩です。でも私は第二節が格別に好きです。それはこうです。
「ちらちらおちる 雪よ雪よ
ちらちらちらと なぜ おちる
はのないえだに あたたかそうな
まわたのふくを きせるため」
触ると冷たい雪ですが、葉のない枝に、暖かい真綿の服を着せているのです。そう見えるのです。
こうした物の見方とは対照的に、客観的で記述的な知識以外に信用できる確かな知識はない、と現代人に思い込ませている、いわゆる自然科学万能主義の物の見方があります。それが日常の生活では次のように現われます。かつてわが国の高度経済成長時代の実話です。某有名国立大学卒のエリート社員と、あるキリスト教短大卒の女性が、インドの一空港で偶然の出会いを経て、結婚しました。その披露宴の席で、花嫁の恩師、彼女の寮監でもあった先生は、「神さまの不思議なお導きによって二人は出会われ、この日をお迎えになりました」と祝辞を述べられたのですが、花婿のやはり同じ大学卒の数人の仲間は、花婿がヨーロッパからその空港までどのように到着したか、時刻をしるした航空券の話までもち出して説明し、だから彼女は彼に出会えたのだと、得意気にしゃべっていたそうです。ロマンのない、しかも、いかにも上から目線の話し方で、辟易したことを思い起こします、というその恩師の先生のお話でした。先にお話しした「検証の原理」派と同じレヴェルの連中だな、というのが、私の感想でした。(「心の眼で見た言葉」 9へ続く)