「心の眼で見た言葉」9

「心の眼で見た言葉」 8からの続き

 新共同訳の聖書によりますと、信仰とは何かを教える新約聖書の < ヘブライ書 11 章 1~3 節 > の言葉は次のように言っています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは(・・・・・・)目に見えているものからできたのではないことが分かるのです(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」 (傍点西谷)。

 かつての口語訳の聖書では傍点の言葉は「見えるものは現われているものから出てきたのでない」となっており、すこしわかりにくかったのですが、今回の新共同訳はそこを「見えるものは、目に見えているものからできたのではない」と丁寧に訳しており、改善されました。始めの「見えるもの」という箇所に「心の眼に見えるもの」と補えば、もっとわかりやすくなります。つまり、信仰とは、表面に現われているものを肉眼で見て信じることではなく、その背後にある本当の現実、真理を「心の眼」で洞察して、それを信じるということなのです。エフェソ書の 1 章 17~18 節も、「神を深く知ることができるように……心の眼を開いてくださるように」と述べています。
「心の眼」によって私たちは世界の奥深くにある神の言葉を理解するようになるのです。神の言葉を人々に伝えた預言者たちは「見る人」とも呼ばれていました。「心の眼」で世界をそして人間を見た人たちです。

 イエス・キリストを「この人は大工ではないか、マリヤの息子ではないか」<マルコ伝 3 章 6 節 >、「大食漢で大酒飲み…罪人の仲間だ」< マタイ伝 11 章 18節 > と悪口を言う人々がおりました。しかし、ローマ帝国の百人隊長は十字架上のキリストを見上げて、「本当に、この人は神の子であった」< マルコ伝 15 章39 節 > と言いました。ヨハネは「神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」< ヨハネ伝 3 章 16 節 > と言いました。

 私たちも百人隊長やヨハネと同じように「心の眼」、信仰の眼を与えられたいと思います。神ご自身が醜い罪人の私たちを、神の子供として見て下さったのです。十字架のイエス・キリストのゆえに黒いものを白いと宣言して下さったのです。私たちを「心の眼」で見て下さっているのです。 (おわり)