西谷幸介牧師
「しじまの声を聞く ~ 礼拝とは何か」5からの続き
さらに礼拝についてお話を続けますが、黙祷の姿勢を取るのは前奏の時間からです。でも、そこでは「奏楽」が鳴り響いています。音楽が演奏されています。これでは本当の沈黙ではないではないか、という疑問をもたれる方があるかも知れません。そこで次に私たちが弁えるべきは、礼拝の中で奏楽が行なわれているこの意味だということになります。
じつはピカートは沈黙と音楽の関係についても次のようにしるしています。すなわち、
「音楽の響きは言葉の響きのように沈黙に対置されているのではなく、沈黙と並行している。楽の音はあたかも沈黙の上を流れていくようであり、また沈黙に推し動かされながらその表面を滑ってゆくかのようである。音楽は、夢見ながら響き始める沈黙なのだ。音楽の最後の響きが消え去った時ほど、沈黙がありありと聞こえてくることはない」。
ここで言われているのは、言葉は沈黙と深い関係にありながらもそれと対照的であるのに、音楽は沈黙と並行的で親和的なものだ、音楽は私たちに沈黙の意味を象徴的に伝えてくれるものだ、ということでしょう。つまり、音のない単純な沈黙より、音楽によって沈黙はさらにより深く感じられうる、真の沈黙へと導かれうる、ということでしょう。
このことがキリスト教の礼拝にオルガンを中心とする奏楽があるということの一つの大きな理由です。礼拝にオルガン演奏が取り入れられるようになったのはおよそ 7 世紀の頃と言われています。説教の大切さを強調したプロテスタント・キリスト教の礼拝では、神の言葉の説教に集中する沈黙を促すために、オルガンの奏楽がさらに重んじられたのかも知れません。それを母胎として 17 世紀、18世紀からバッハを筆頭とする優れた教会音楽、そこからまた一般のクラッシック音楽が輩出したことは、言うまでもありません。