「しじまの声を聞く ~ 礼拝とは何か」 1 からの続き
さて、以上は礼拝の開始の時間、とくに前奏の時間に関わることでしたが、次に礼拝の中味の部分を考えていきたいと思います。そして、それに深く関わることと
して、「汝ら、静まりて、我の神たるを知れ」という<詩編46章10節>の言葉があると、私は思っております。この言葉に注目するのは、私たちの教会がプロテスタント教会であるということに関連しています。
教会の礼拝の歴史を大きくとらえますと、礼拝は聖餐(式)を中心として始まりましたので、聖餐中心のカトリック教会の礼拝形式が長く続きました。しかし、宗教改革によって説教、つまり神の言葉(聖書)の解き明かしが強調されて、その後プロテスタント教会では「説教」と「聖餐」の二つを礼拝の中心に据えてきました。ですから、礼拝堂の正面を見て、聖餐卓が中央にあり、説教壇が左にある教会は、伝統的な古い形を取っているわけです。戸山教会のように、説教壇が中央にあり、その前に聖餐卓がある形は、プロテスタントの説教中心の特徴を表わしている、と言ってよいかもしれません。ただ、今ではカトリック教会も説教を重んじています。
しかし、ここで誤解すべきでないのは、プロテスタント教会は、だからと言って、聖餐を軽視しているわけではないということです。聖餐に関する宗教改革者たちの結論は、パンと葡萄酒がそのままキリストの体と血ではないが、聖餐はただキリストの十字架を記念するだけのものでもない、聖餐はそれによってキリストの恵みにあずかる大切な聖礼典であり、聖餐も説教と等しく神の言葉であると言うことができる、ということでした。
以上のことをしっかりと覚えながら、あらためて「説教」に対する私たちの姿勢のことを考えていきたいと思います。
続く