「エリヤよ、ここで何をしているのか」。エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」。主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞えた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」 列王紀上 19:9 ~ 13
 

 ある学生が、「キリスト教概論」の時間に、大学での学内礼拝に関する質問をしてきました。「礼拝が始まるまで、どのようにしていればよいのでしょうか。前奏の時間にはどういう意味があるのでしょうか」というものでした。これはキリスト教の礼拝に関わる良い、しかも大切な質問だと思います。

 私が司会をする際は、まず初めに「只今より礼拝を始めます。前奏と共に心を静め、黙祷の姿勢をお取り下さい」と述べておりますが、それによって、人が礼拝に臨む際には神さまの前に沈黙の祈りをもつようにと奨めているつもりです。礼拝する人は、礼拝の開始が告げられる前から、つまり会堂に着席したときから、静寂を心がけるべきでしょう。

 さて、司会者はこのように礼拝の開始を告げ、前奏が終わったところで、礼拝への招きの言葉を述べます。招詞としては、私自身は、決まって次のように申しております。「礼拝への招きの言葉: 汝ら、静まりて、我の神たるを知れ。我は諸々の国のうちに崇められ、全地に崇めらるべし。悩みの日に我を呼べ。我、汝を助けん。而して、汝、我を崇むべし」。これは、じつは、前半のほうは < 詩編46篇10節 >の文語訳聖書からの言葉、後半は <詩編50篇15節> の言葉で、これも文語訳です。それぞれ異なる詩篇からですが、両方とも、神が「崇められ」礼拝されるべき御方であることを伝える点で、共通しています。

 <詩編50篇15節> は、じつはあのロビンソン・クルーソーが絶海の孤島で、もはや死んでしまうのかというほどの病に陥った時、初めて聖書を開き、示された言葉でした。この言葉で彼は立ち直り、そこから神を信じる者となったのです。私はこれが宗教の本質を象徴する人間の現実だと信じており、キリスト教の礼拝も苦難や困窮の中から神さまによる救いを求める人間の姿を表わすわざだとも信じておりまして、そうした思いから、この聖句を礼拝への招詞としていつも引いております。

 もちろん、招詞は、司会者が礼拝参加者の心を神さまに向けるための言葉ですから、そうした礼拝への雰囲気が整えられるような聖書の言葉を、司会者は自由に選んでよいわけです。

2へ続く