「裁く方は主である」7 からの続き
なぜ、そうした思い(死者をめぐる生き残った者たちの複雑な負い目の思い)が日本人にはとくに顕著なのかと言いますと、その背後に日本人の宗教意識で言う「祟り」という考えが潜んでいるからではないかと考えるからです。というふうに言いましても、すぐにはピンとこない方もおられるかも知れません。
「祟り」と言う言葉を辞書で引きますと、だいたい、神仏や怨霊などによる禍、と出てきます。「祟る」という言葉は、もともと、取り付く、憑依する、という意味だったようです。しかし、そこから、その意味がいわば変化進展しました。仏教的に言えば「浮かばれなかった」つまり極楽往生しなかった死者の霊が、生き残った者に取り付いて、悪い罰を与える、というところにまで意味が拡大されたのが、「祟り」です。「浮かばれなかった」ということも、もっと詳しく言いますと、その死は、寿命という自然な要因によるものではなく、その生前の死者に対する回りの人間の過失とか悪意といったことを原因とする「非業の死」、不運極まりない死であった、ということなのです。
浄土仏教が入ってきて、それは日本人に極楽浄土への往生という「来世」信仰を教えましたが、古来、日本人には来世といったこの世を超越する場所の観念はなく、従って、死者の霊もまた、生き残った者と同じこの世の空間に留まり続ける、というのが、その本来の考えでした。英語で外国人向けにのみ書かれた神社本庁による神道のパンフレットの中にも、神道では、この世は永遠に続くものであると信じる、この世こそが永遠に続くものであるから、死後の永遠の価値や報いなどは求めない、従って、人間の霊は死後もこの世において生き続け、子孫に崇拝され、子孫を庇護する、とはっきりと書かれています。
「裁く方は主である」 9 へ続く