聖書:ルカによる福音書 19章1~10節

 セーレン・キルケゴールという19世紀デンマークの哲学者は、キリスト教信仰について私たちに深く教えてくれるところがあります。その中の一つに、信仰とは飛躍だ、という教えがあります。罪のうちに絶望して永遠の滅びを待つか、信仰による救いの世界へと勇気をもって飛び込んでいくか、人は結局そのいずれかを選択しなければならない。そこで、人はただ信仰の決断による飛躍によってのみ、神の前に立ち、その救いに与(あずか)り、そうして真の自分自身となることができる、と言うのです。この説に従えば、信仰とはある意味で「賭け」であります。勇気を奮い立たせて、自分自身を賭ける、「賭け」です。
 信仰は「賭け」だという説を唱えたもう一人のキリスト教徒は、17世紀フランスの数学者・物理学者ブレーズ・パスカルでした。当時のフランスでは賭博が社交界の最も人気のある遊びでありました。パスカルは友人に質問されて、賭博の賭金の分配に関する論文を書いたりしています。しかし、彼が、あの有名な書物『パンセ』の中で、信仰を賭けに例えて述べているのは次のようなことです。
 君が信仰の賭けで賭ける賭金は、君の命だ。この賭けで勝った場合に君が得るものは永遠の命と幸福である。敗けたときに失うものは、もともといつかは失われる君の命だけだ。だから敗けたとしても、君は何も損するわけではない。もし勝てば、君は永遠の命と幸福の二つを獲得する。もともと無に等しいものを失っても、無限の儲けが手に入ろうとしているのだ。それなのに君がためらうとはどういうことだろう。君が自分の命を思い切って投げ出そうとせず、相変わらずそれを掴んで放そうとしないならそのように君を逡巡させる理性なんかどこかへ捨ててしまえ。勝敗は五分と五分の一戦で、賭けるものが有限で、得られるかも知れないものが無限ならば、なぜ君は賭けようとしないのか。
 パスカルはこのように述べて、信仰とは賭けである、人はこの賭けに勇気をもって挑戦すべきである、と説得するのです。私も神学生時代この箇所を何回となく読みまして、信仰がパスカルの言うような賭けであれば、それは賭けなければ損する賭けだと思ったものでした。
 以上のような説得を受けますと、一つやってみようかという人もあるかも知れません。しかし、多くの人はやはり逡巡します。今もっているものを失うことが惜しいからです。現状を破棄することは嫌だからです。何よりも、えいやと飛び込んでいく、見知らぬ向こう岸が恐いからです。そこには、より大きな、より理想的な、より意味深い世界があると思っても、しかし、やはり恐いのです。こうして、1タラントンを貸し与えられても地中に隠していた僕のように――5タラントンや2タラントンに賭けてその倍を得ることができた僕たちとは違って――躊躇し逡巡する者は、最後にはすべてを失ってしまいます。彼はその賜物を与えてくれた主人から、1タラントンどころか仕事も取り上げられ、その家からも追い出されてしまいました<マタイ福音書25章14~30節>。
 人間の真の幸福についてのキリスト教の教えの決定的な点は――これは大いなる逆説ですが――自分の殻を破り捨て、今の自分を乗り越えていく勇気をもつことで、初めて人間は、真の幸福、真の自己の命の獲得に至る、ということにあるように思われます。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のため、また福音のために、自分の命を失う者はそれを救うであろう」<マルコ福音書8章35章>。
 さて、今朝の私たちの聖書のテキストは<ルカ福音書19章1~10 節――口語訳>です。有名な徴税人ザアカイのイエス・キリストとの出会いの話です。私たちはこの箇所から、イエス・キリストが大いなる賭けをなさった方であるということ、そして、イエス・キリストをこの世にお贈り下さった神ご自身が今も大いなる賭けを続けておられる方だということを、クリスマスを覚えながら学びたいと思うのです。
 この物語は読みましたようにわかりやすいものですから、繰り返しません。ただ、今朝、皆さんにとくに覚えて頂きたいのは、5 節の「ザアカイよ、急いで降りて来なさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」という、主イエスの言葉です。とりわけ、「きょう、あなたの家に泊まることにしている」というお言葉です。
 ザアカイとイエス・キリストは初対面でありました。それにしては、主イエスのこの言葉は思い切った言葉だと皆さんはお思いにはならないでしょうか。初めて会う、どこの馬の骨ともわからぬ相手の家に、「今日は泊まらせてもらうよ」と言っておられるのです。実は、主イエスはザアカイのことは予め、よく知っておられました。主イエスが町に入って行かれるとき、必ず二人の弟子たちが前もってその町の様子を調べ、それを報告していたからです。エリコの町の嫌われ者、「不正な取り立てをして」同胞を苦しめていた徴税人たちの頭(かしら)ザアカイのことも、その外見から人となりまで、主イエスは事前によく承知なさっていたに違いありません。だからこそ、木の上から自分を見ているそれらしい人物を見てすぐに、「ザアカイよ、降りて来なさい」と言われたのです。
 それでも、実際、二人は初対面でした。そのとき、主イエスのほうから、「ザアカイ、今日、君の家に泊まることにしているよ」と、まるで昔ながらの友のように、親しく語りかけられ、しかも宿泊までも願われたのでした。
 ところで、「私は、今日、あなたの家に泊まることにしている」とは、随分強引な、取りようによっては、図々しい物の言い方ではないでしょうか。私のように、図々しい人間は大嫌いだ、というような人間からすると――しかし、まあ、私自身も、時に相当図々しいところがあって反省はしているんですが――この主イエスのお言葉はいかがなものかと思ってしまいます。前触れも、打診もなく、急に、「おまえの家に今夜は泊まるにしている」と言われたら、どうでしょう。大抵の人は内心、反発を感じるのではないでしょうか。
 この言葉は、例えば、法律の条文によく使われる「…であるものとする」という表現に似ています。「大学教員は学長から依頼があった場合、受けるものとする」という文章は、早い話が、「教員は学長の命令には従わなければならない」という意味です。「…であるものとする」とは「…しなければならない」という意味なのです。「今日、あなたの家に泊まることにしているよ」は、「今日、私はあなたの家に泊まるものとする」、つまり「私はあなたの家に泊まらなければならない」。だから、あなたもそれを受け入れなければならない。これが主イエスのお言葉の意味なのです。
 実際、ギリシア語聖書の原文を読んで直訳しますと、主イエスの言葉は、「今日、なぜなら、私は泊まらなければならないから」ということになります。「…しなければならない」、英語で言う Should あるいは Must に当たるギリシア語の助動詞 Dei が確かにこの文に用いられています。新共同訳聖書は「今日は、ぜひ私はあなたの家に泊まりたい」とやわらかく翻訳していますが、しかしこの主イエスのお言葉は単なる提案や願望以上の、もっと強いニュアンスをもっています。「あなたがよければ、泊まらせて欲しいのだが」と言われているのではなく、文字通り、主イエスは「私は今夜おまえの家に泊まらなければならない」と宣言しておられるのです。
ここに用いられている「…しなければならない」という助動詞は、ルカの著作すなわち<ルカによる福音書>と<使徒言行録>において41回用いられており、とくに「神ご自身の必然的意志」を表わす意味が込められています。つまり、神の救いのご意志によれば、こうでなければならない、ああでなければならない、私はこれをしなければならない、彼はこうならざるをえない、そのような意味を醸し出す、特別な言葉なのです。
 <使徒言行録16章30節>で、看守がパウロとシラスに言う言葉、「先生方、救われるためにどうすべきでしょうか」の「どうすべきか」という助動詞がまた Dei です。「今、この時、救われるために私がしなければならない、神のみ心は何でしょうか」と看守は問いました。するとパウロとシラスは答えました。それは「主イエスを信じてバプテスマを受けることだ」と。それが、神がこの看守のために計画された「…しなければならない」必然だったのです。看守とその家族はその夜ただちに洗礼を受けました。
 「きょう、私はザアカイの家に泊まらなければならない」という主イエスのお言葉は、取りようによっては図々しく響く言葉ですが、しかしまた取りようによっては、思い切った、勇気に満ちた言葉であります。見知らぬ、しかも世間的にはきわめて評判の悪い人物の家に泊まるのです。丸一晩、身を預けるのです。不安を感じ始めれば限りのないことでもありました。いわば、一つの賭けです。
 しかし、それは何の賭けでしょうか。それは主イエスのザアカイに対する「信頼の賭け」でありました。ここで起こっていることは、ザアカイに対する神の「信頼の賭け」なのです。「私は、今日、あなたの家に泊まることにしているよ」とは、「ザアカイ、私はお前と初対面だけど、また人はお前を悪く言うようだけど、私はお前を全面的に信頼しているよ」という、主イエスのザアカイへの信頼の言葉なのです。聖書が言う神の愛、アガペーの愛には「人格的な信頼」という要素が含まれています。むしろ、「人格的な信頼」ということがアガペーの愛の本質だと言ってよいかもしれません。
 「担保」や「抵当」に基づいて他人を信じる行為が「信用(クレディット)」ということだとすれば、「信頼(トラスト)」には、そういう裏切られた時の保険に当たる「物」はありません。純粋にその人を信じること、これが「信頼」です。保険も保証もありませんから――そうです、自分の信じる心を、まずはじめに自分のほうから、その人に対して無償で差し出しますから――それは一種の「賭け」になります。しかし、そういう「信頼」が本来神のかたちに造られた人間を真の意味で「人格」にします。人を「人格」とすること、「人格」としてその人に相対すること、これがアガペーの愛です。
 主イエスとの出会いによって初めて、嫌われ者であったザアカイが、今まで皆からは除け者にされていたザアカイが、神の前にかけがえのない「人格」とされました。ですから、彼は喜んだのです。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んで主イエスを迎えた」。私たちは、ザアカイと同じように、この主イエスから与えられる私たちへの「信頼」を経験し受け入れることによって、その時、キリストを信じる者、その弟子となるのです。
 この「信頼」の根源は、二千年前、クリスマスに、天の父なる神から私たちに与えられた「信頼」であります。神の人間にたいする「信頼」は、ベツレヘムの貧しく寒いあの馬小屋の飼葉桶に示されました。そのみどり子がまず神さまの側からなされた「信頼の賭け」のしるしでした。「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉桶のなかに寝かしてあるのをみるであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」<ルカ福音書2章12節>。信頼のしるしである。
 皆さん、これがクリスマスです。主イエスが私たち罪人に対してあえてなされる呼び掛け、「今日、君の家に泊まることにしているからね」、このお言葉を心から喜んでお受け入れすること、これがクリスマスであります。聖書には、これを人々は拒んだ、とあります。このみどり子の命をねらったヘロデ王のような人もおりました。「彼は自分の民のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」<ヨハネ福音書1章11節>。受け入れなかったどころか、私たちはこの方を十字架につけたのです。
 しかし、私たちは覚えたいと思います。それにもかかわらず、神はこの独り子をこの世に賜わったのです。神はそれもご承知の上で、あえて「ご自分のみ子をさえ惜しまないで、私たちすべての者のために死に渡され」たのであります<ローマ8章32節>。神は今なお信仰によって回復さるべき私たちの人間性に賭け続けておられます。それに応えて、私たちのうちに、どうか、この神の信頼に対する私たち自身の信頼の応答としてのクリスマスが出来事となりますように。