聖書:
ローマの信徒への手紙3章28節
ルカによる福音書18章9~14節
ガラテヤの信徒への手紙2章16節

説教:
 今年は宗教改革500周年記念の年です。1517年10月31日、マルティン・ルターによって、当時のカトリック教会の宗教的腐敗を正す「95か条の提題」が、ドイツはヴィッテンベルグの城教会の扉に掲げられて、この改革運動が始まったと言われてきました。実際このとおりのことが起こったかは確定できませんが、ルターが改革の趣旨をしるした手紙をある人に送ったことから、この運動の開始時期はやはりこの辺りであったと確認できますし、もちろん「95か条の提題」はそのまま残っています。
ルターはヴィッテンベルグ大学の聖書学・言語学の教授でもあったカトリックの修道士でした。95か条には様々な内容がしるされていますが、改革されるべき大きな問題はいわゆる「免罪符」と「聖職売買」の二つでした。免罪符は一般には「天国行きの切符」と言われたりしていますが、「贖宥符」というのが正しい呼称で、それによってこの地上で犯した罪に対する罰が免除されるというものでした。信徒は、死後、罪の浄化を受けるという煉獄を経て、天国へ招かれるか、それともついには地獄へ落ちるか、ということを真剣に信じていましたので、自分の大きな罪に思い当たる者で、しかも多額の献金ができる者が、この贖宥符を教会から購入したのです。テッツェルという販売上手な神父がいて業績を上げ、教会は財政的に大いに潤いました。
聖職売買とは「シモニー」とも言いますが(<使徒言行録8:18> 聖霊の力をお金で買い取ろうとした「シモン」に由来)、要するに賄賂の問題です。カトリック教会では聖職者たちの間に位階制(ヒエラルキー)つまり副祭、司祭、司教、大司教、枢機卿、そして教皇、と上昇する階段が設けられており、上からのお達しでそれを昇っていくのですが、実はその裏工作を自分たちどうしの金銭のやり取りで行なっていたのです。教会には土地と財産がありましたから、そうすることができたのです。
こういうわけですから、宗教改革の課題は、要するに、まずお金まみれになって堕落した教会を正すことから始めて、もう一度聖書が教える本来の信仰生活、教会生活を取り戻そう、ということでした。聖書学の先生であったルターには、聖書の教えからはほど遠い、当時のカトリック教会で出来上がっていた教えや慣習には、耐えられないものがあったのです。

 ルターは、なぜ、こうした聖書の教えからはほど遠い行ないが教会で習慣化したのだろうかと、考えました。そして、その根本原因は、神からの救いは善い行ないにより得ることができる、というカトリック教会の伝統的な教えなのだ、と思い当たりました。この教えは、当然、信じる者を善行に励むように促します。善行に励めば人々から称賛され尊敬されます。その結実の一つは社会的な地位が与えられるということです。神父たちも同じような思いにとらわれていました。早い話が、どんな司祭も司教に昇格したいのです。そして、その昇格がお金を使うとたやすく実現するのだと知れば、お金の力に頼るのです。自分は悪行(あくぎょう)にふけっていたというマイナスの自覚をもつ者は、それが教会への献金という善行で帳消しにしてもらえるのだと聞けば、それに飛びつくのです。
救いは善行により得られるという考え方は、ともすると、このように、人を、真面目に善行に励む代わりに、救いへの歪んだ近道へと誘いがちです。また、善行に純粋に励んでいる人は、それをしないでも平気な者には、怒りを覚えて、裁きがちになります。
ルターも、初めは、聖書の教えに従い、神の前に礼拝と労働という善行に励む、修道院の生活を全うしようとした人でした。しかし、この生活を徹底しようとすればするほど、実は以上のような人間の醜い現実がかえって浮き彫りになる、ということをいやというほど経験したのです。
そして、その時に発見したのが、<ローマ書3章28節>に記されている、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という、使徒パウロの言葉でした。ユダヤ教徒の中でも、律法を知りそれを実行することにおいて完全を目指した「ファリサイ人」として、ルターと同じような経験をしたパウロのこの確信に満ちた言葉に、ルターも心から賛同し、これこそがキリスト教信仰の真理を言い表わす言葉であると宣言したのです。これをルターによる「福音の再発見」と言っています。
そして、ルターは、「信仰による」というパウロの言葉に「のみ」を加えて、イエス・キリストの「福音」即ち「良き知らせ」の要点は「人は信仰のみにより救われる」ということなのだ、と強調しました。ここから宗教改革の根本原理は「信仰のみ」sola fideとなり、さらに、救いの極意はカトリック教会や教皇によってではなく、聖書のみによって教えられている、という意味で、「聖書のみ」sola scripturaという原理が掲げられるようになります。

 と、ここまで、宗教改革の要点についてお話してきましたが、ここからは「信仰義認」と要約されるルターの教えに対する説教者個人の小さな質疑の歴史をご披露したいと思います。その根本は、「信仰のみによって神からの救いを受ける」という場合の「信仰」とはどういうことだろうか、という問いです。律法を守る「行ない」によってではなく、ただ「信仰のみ」によって救われる、というわけですから、何もしないで、ただ「信じます、信じます」と言えばよいのだろうか。そうだとすると、それは意味なくただただ繰り返す場合の「念仏」や「題目」に似ているなあ、などと、考えたのです。
実際、ルター派の人々の中には、キリスト教徒は、神への信仰に集中し、何もしないで、人生を静かに過ごすことがよいのだ、と考えた人々が存在しました。こういう信仰態度を「静寂主義」Quietismと呼んでいます。さらにはまた、善行を促す律法自体を否定する「反律法主義」Anti-legalismを主張する人々さえ出てきました。しかし、そうすると、信仰者の「行ない」そのものは根本的に悪いことなのか、神の教えに従う「行ない」も否定されるのだろうか、という問いが起こってきます。<ヤコブ書2章17節>は「行ないが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と教えています。これは、一見、パウロやルターの教えに真っ向から対立する教えのように聞こえます。ルターも当初はヤコブ書を「(わら)の書」と呼んで批判しました。しかし、ヤコブ書もキリスト教の正典である聖書の一部です。聖書は、ルター個人に優る、イエス・キリストの第1の証言の書です。これを軽んじることはできません。
そこで、<ローマ書>の「信仰義認」の教えと、<ヤコブ書>の「行ないのない信仰は死んだもの」という教えを総合すると、信仰者の行ないは次のように理解すべきだということになります。すなわち、それは神からの救いを得る条件としてはまったく無効であるが、救われた後の信仰者の善行としては神に喜ばれるものである、と。
ただ、いずれにせよ、人間の行ないを考える際に最も重要なことは、人間のわざは、それが他の人間たちからどれほど偉大だと称賛されようとも、天地万物の創造や、人類救済のためのイエス・キリストの派遣といった、神の偉大で創造的なわざに対しては、比べようもなく、ちっぽけなものにすぎないものだ、という根本的な認識です(リチャードソン著 西谷訳『仕事と人間』30頁参照)。

 さて、これまで、ルターからパウロにまで遡って「信仰のみにより義とされる」という聖書の教えを考えてきましたが、この教えはそもそも主イエスご自身から出てきたものなのでしょうか。パウロやルターの話ばかりしてきましたから、主イエスはどうであったかということは気になるところです。いや、それどころか、もしこの教えが主イエスにつながるものでないならば、キリスト教としては、たいへんおかしなことになってしまうでしょう。ルターの宗教改革の確信は信仰義認の教えにあったわけですから、それが主イエスにつながっていないとすれば、プロテスタント教会の信仰の土台が、その足元からグラつくことになります。信仰義認の教えは主イエスに由来するものなのでしょうか。
大丈夫です。主イエスも、「信仰により神に義と認められる」という表現は用いられませんでしたが、内容的にはまったく同じことを教えておられました。その点でまず第一に想起したいことは、主イエスが、当時のユダヤ教に蔓延していたいわゆる「律法主義」の態度を強く批判されたということです。一例だけ挙げますが、安息日の礼拝の際に、片手の萎えた人のその手を癒されました。律法遵守を金科玉条としていたユダヤ教の律法学者やファリサイ人らは、これを、「安息日に仕事をしてはならない」という律法を盾に、禁じられたことを行なったとして、主イエスを責め立てました。それに対するイエスのお答えは、「安息日は人のために定められた。人が安息日の〔律法に縛られる〕ためにあるのではない」<マルコ福音書2章27節>というものでした。主イエスは、この歪んだ律法理解の中に、律法自体を神さまの位置にまで高め、律法に元来含まれるヒューマニズムさえも無視する、「律法主義」の大きな誤りを見届けられたのです。
以上は主イエスが「律法主義」に明確に反対された出来事ですが、すでに申しましたように、主イエスはそこで「律法の行ないによらず信仰により神に義と認められる」といった表現は用いておられません。ただ、<ルカ福音書>の譬の中で一箇所だけ、主イエスが、「義とされる」という言葉を用いておられるところがあります<18章14節>。そして、その譬を読むと、そこに明らかに、パウロやルターが受け継いだであろう、主イエスご自身の「信仰」の理解が示されているのです。念仏のように、ただ「信じます、信じます」と繰り返すのではない、本当の「信仰」者の在り方が示されているように思われます。

 その譬とはファリサイ人と徴税人の神殿での祈りを取り上げた主イエスの譬です。ファリサイ人は「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と、自分が律法をいかによく守っている優等生かということを神さまに伝えています。これに対して、徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を叩きながら」、「神さま、罪人の私を憐れんで下さい」と祈りました。そして、何と、主イエスは、神さまに「義とされた」のはこの徴税人のほうであった、と告げられるのです。この後に出てくる徴税人ザアカイもやはり人々から税を「だまし取っていた」<19章8節>と言っていますから、この徴税人も同胞から何かやましい税の取り立てをしていたのだろうと想像できます。罪の意識があったのです。そこで、彼の祈りは、ファリサイ人の自分を讃える祈りとは違い、自ら罪人であることを告白し、「こんな私ですが、神さま、どうぞ憐れんで下さい」と、赦(ゆる)しを懇願する祈りとなりました。そして、主イエスは、「義とされた」のは「この人」のほうだと宣言されたのです。
実は、こうした主イエスの宣言は、当時のユダヤ教の考え方からすれば、とんでもないことでした。もともと、「義とされる」というのは法廷用語で、「正しい者」とされる、無罪と判決される、という意味でしたから、律法を正しく守るということとは切っても切り離せない言葉であったのです。律法を守る善い行ないによって神に義と認められるということは、ユダヤ教にとって、当然の常識だったのです。
しかし、主イエスは、その建前と、その内実との、大きな(ギャップ)をよく承知しておられました。律法学者やファリサイ人たちの、自分たちは律法を完全に守っているのだという(うそぶ)きと、その律法厳守を人々にも強制し苦しめる、彼らの自己欺瞞に対して、主イエスはいわば宗教的な革命を敢行されたのです。その自己欺瞞の事実に目覚め、それを率直に認め、罪人が義とされるのは自ら罪人である人間の不完全なわざによってではなく、ただ聖なる神さまご自身によるその罪の(つぐな)いのわざによるしかない、と知るべきである、というのが、主イエスのその革命的な教えでした。そして、とうとう、最後には、ご自身が神さまの御心に従い、十字架上でその償いのための犠牲の献げものとなられたのです。
このことが私たちに教えているのは、罪の償いは人間わざでは不可能なのである、ということです。罪人である人間にできることは、自らの罪を素直に認め、悔い改めて、神さまからの尊い償いのわざを受け入れる謙虚な心をもつことだけなのです。ですから、使徒パウロが「信仰によって義とされる」と言う場合の「信仰」とは、先の徴税人のように、心から自分の罪深さを認め、それを悔い、そして神さまにひたすら赦しを祈り続ける心をもつ、ということに外なりません。もともと罪人である人間には自らを救いうる力などないのです。パウロは、そしてまたルターは、この「信仰」を主イエスから教えられ、受け止め、受け継いだのでした。

 先にパウロの<ローマ書3章28節>の言葉を引きましたが、<ガラテヤ書2章16節>にも「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」という殆ど同じ意味合いの彼の言葉があります。しかし、前者では「信仰によって」となっている箇所が、後者では「イエス・キリストへの信仰によって」となっています。ギリシア語原文では「ディア・ピストース・イエスゥ・クリストゥ」です。ここは現在の聖書の訳文のように「イエス・キリストへの信仰」と訳すのが常識的だと考えられます。しかし、英語に直せば、“through faith of Jesus Christ”であって、この属格ofを、「イエス・キリストに対する信仰」と対格の意味にではなく、「イエス・キリスト信仰」と主格の意味に取ることもできるわけです。そうすると、「信仰」と訳されているギリシア語の「ピスティス」は「真実(まこと)」とか「真心」という意味ももつ言葉ですから、この<ガラテヤ書>の言葉は「イエスキリストの真実によって義とされる」と訳すことも可能であるわけです。
そうすると、私たちは「信仰によって義とされる」という聖書の教えを、あらためて次のように言い換えることができます。すなわち、私たちが義とされるのは私たち罪人に対するイエス・キリストの「真実」によってである、と。罪人である私たちに対する神さまの恵みによって、そして、それを実現するため十字架でその命を差し出して下さったイエス・キリストの私たちへの愛の真実によって、私たちは「義とされる」のです。ルターの福音の再発見とはこのキリストの真実(ピスティス)の発見でもあったのです。