聖書:コへレトの言葉 11章 1~6節
コヘレト(伝道者)は、「朝、種を蒔け。夜にも手を休めるな」と告げます。そのあとの理由が重要です。コへレトは、「実を結ぶのは、あれか、これか、両方なのか、分からないのだから」(11節)と言っています。結果が分からないから、今、やるべきことをしっかりとやろう、というのが、旧約聖書の信仰であり、人生の時間のとらえ方です。
先は分からない、というのは、一種の不可知論です。これは世間一般にもある考え方です。わからない先には、不作があり不幸が待ち構えているかもしれません。しかし、豊作があり喜びが用意されているかもしれません。「風向きを気にすれば種は蒔けない」(4 節)。これは不可知論から出てくる否定的な態度です。しかし、慎重であるのもいいのですが、石橋を叩いて渡らなければ、進展はありません。待っているのは衰退だけです。
神は人間を救うわざを今も続けておられます。しかし、この救済史の中で、「悪い時」もあります。「ヒゼキヤの祈り」の説教の時にも学びましたが、弱小国ユダヤの王として奮闘し、隣国の大国アッシリアの脅威をようやく乗り越えたと思ったその矢先、「あなたはもう死ぬことになっている」というイザヤの預言が示されました。ヒゼキヤはその時、これではまだ自分の使命が全うされないと、「涙を流して」祈りました。神はその祈りに動かされ、「あなたの寿命を十五年延ばし…あなたとこの都を救う」< イザヤ書 38 章 6 節 > と宣言されました。私たちが心底祈り求めるならば、神はその御心を変えて下さいます。ヒゼキヤが取り組んだ宗教と国家の改革はそうして成りました。
聖書の不可知論的信仰は、神の御業の結末が「分からないから」こそ、答えが見えない不条理とも思える現実の中で、思考を停止したり、あるいは諦念に沈んでうずくまるのではなく、今なすべきことをしっかりとなそうという態度を私たちに促す、積極的で肯定的な信仰なのです。
新年を迎えるに当たり、一人の信仰者として、また戸山教会員として、この信仰と、またそこから出てくる確かな姿勢を、備えられたいものです。