2018年10月28日
『豊かに実を結ぶ』 
ヨハネによる福音書15章1~10節
佐野 真也 副牧師

電車男がハリウッドで映画化されるそうです。先週のニュースで知りました。電車男とは、あまり風采のあがらない男性の恋愛物語です。2004年に、ある男性による、インターネットの掲示板への書き込みから、全ては始まりました。その男性は電車のなかで、乱暴する酔っ払いから女性を助けようとしました。後日その女性から、お礼を受け取ってしまった。では、次は、その女性にどう接したらいいのか?とアドバイスを求める書き込みです。そして、その男性の恋愛を応援する読者が、様々なアドバイスやコメントを投稿し、盛り上がり、物語も展開しました。この物語は、テレビドラマにも、映画にもなりました。これが、14年の時を経て、アメリカへ輸出される運びとなりました。

実話なのか、創作なのかは不明です。しかし、インターネット、ソーシャルメディアを使った読者参加型の物語作りは、日本が先駆けだったのかもしれません。
このニュースを知ったとき、私は、少しだけ、なぜいまさら?と思いました。一方で、ハリウッドでどのようにアレンジされ、演出されるのか、興味がわきました。この映画化が成功するかどうかは、「電車男」をアメリカの文化にいかに適応させるかが一番の課題だと思います。

今日の聖書箇所の、ぶどうの木のたとえ話にも、じつはオリジナルがあります。台本は、旧約の「イザヤ書」5章1~7節です。そこでは取り扱い方がずいぶん違っています。
イザヤ書では、ブドウ畑は、イスラエルの地で、そのブドウ畑は永遠の神の支配されるところであり、良いブドウの木を育てられます。ところが、イスラエルは良いブドウを実らせず、出来上がってきたのは、酸っぱい、悪いブドウであった。したがって、神はそれを焼き払われるだろう、という審きのテーマが述べられています。

一方、ヨハネによる福音書の著者は3つの点にもとづいて、「イザヤ書」の元のお話を、大いに違う、ポジティブなたとえに焼き直しました。
3つの点とは、
・イエスが苦しみを受けたこと
・イエスが死んだこと
・そのイエスによって生かされていると私たちが信じること
です。

単に、ぶどう畑が私たちの場所である、ということだけではなく、ここにぶどうの木があって、それは真実で、主イエスのことなのだ。主イエスは、十字架上で処刑され、私たちと同じように、死ぬことによって一切が終わったが、それを超える、いのちを示された。これが、「まこと」のぶどうの木であり、それを管理し、世話をされているのが、永遠の神である。永遠の神は、いつもこの、ぶどう畑を世話してくださる農夫なのだ。そして、その木につながっている枝が私たち一人一人であり、その一人一人に良い実をならせる。このように、ポジティブな言葉でこのヨハネ福音書のたとえ話は始まるのです。

私たちはこの聖書箇所を、良い実をならせない木は、「主が切られてしまうのだ」、「神がそれを審かれるのだ」というテーマに脅かされて、なんとなく、倫理的な、道徳的な読み方をしてしまいがちです。しかし、そうではありません。ヨハネの主張は非常に積極的なのです。

「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」、と5節に書かれています。「豊かに実を結ぶ」というテーマがここで、強調されています。「イザヤ書」で述べられたブドウ畑のたとえ話とは全く違った形なのです。
これが今日の聖書箇所の中心聖句です。そこで、メッセージのタイトルを「豊かに実を結ぶ」としました。

体が強い人であっても、弱い人であっても、健康な人であっても、いま病いのなかにある人であっても、その人の人生は豊かに実を結ぶことができるのです。農夫である神が、そのぶどうの木、枝、実を豊かに世話されるからです。言い替えると、永遠の神が一人一人を、ありのまま、包み込んで、育まれるからです。

私たちは限りあるいのちしか与えられないけれども、実は主イエスも同じく限りあるいのちだった。だからこそ、私たちは、限りない永遠の神の御手につながることができる、とヨハネは言うのです。
現在の日本の言葉を使うならば、私たちがそのままで永遠に受容されている、受け入れられている、ということです。受容、受け入れる、という言葉が、その当時、福音書記者ヨハネが使っていた言語にはなかったので、そういった言葉はこの聖句の中には、出てきませんが、福音書記者ヨハネは、どういう言葉だとこの意味が伝えられるか、一生懸命考えたのだと思います。そうして辿りついた言葉が、「愛」という言葉だったのです。ですから、今日の聖書箇所では、たくさん「愛」という文字が出てきます。
例えば、9節に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。私の愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

そして今度はここで、「掟」という文字が出てくるので、何となく私たちは、非常に高い、宗教的倫理が求められている、と考えてしまいがちです。しかし、実は決してそうではなくて、一人一人がどんな状況の中にあっても、このまま、この、ぶどうの木につながっているなら、神は、いつもその人を豊かにとらえ、育んでくださる、と伝えているのです。
別の言葉で言いますと、主イエスとともに、きよめられている、主イエスとともに、愛の内にある、ということです。この「愛に留まる」という表現は、英語では、“dwell in love”です。「共にある。そこに、共に住む」という意味です。
こどもたちが今月、早起き礼拝で暗誦している、聖句の英語、“I am the vine , you are the branches”は“dwell in love”と同じ意味なのです。「永遠の神の愛の内に、私たちが共にいる」、というメインテーマが、この聖書箇所にずっと流れているのです。それは例えば、私たちが共に食事をするときに、皆が同じ食卓に共に居る、ということです。

今日、私たちは、これから、バザーをみんなでともにもちます。教会につながる、幼稚園、ボーイスカウト、この3つがいっしょに、協力しあって、毎年、バザーを作り上げます。これは、永遠の神が私たちを豊かにとらえて、育んでいてくださることの表れなのです。

そして、私たちは、ひとりひとりが豊かに実を結ぶようにと、望まれた存在なのです。「まこと」のぶどうの木。私たちの場所は、ちゃんと、ここにある。ここでつながっている。豊かに実を結ぶことができる枝なのだ。そのことを信じ、また、思い出すことのできる、ひとりひとりでありたい、と願います。