今年2017年は宗教改革500周年記念の年です。1517年、ヴィッテンベルグ大学の聖書学教授でもあった修道士マルティン・ルターによって、当時のカトリック教会の宗教的腐敗を正す改革運動が始まったのです。改革されるべき大きな問題はいわゆる「贖宥符」と「聖職売買」の二つでした。贖宥符とはそれによって罪に対する罰が免除されるという証書であり、自分の大きな罪に思い当たる者で多額の献金ができる者がこれを教会から購入したのです。聖職売買とは多くの聖職者たちがその位階制(ヒエラルキー)つまり昇格の階段を賄賂の力で昇っていたという問題です。こういうわけですから、宗教改革とは、お金まみれになって堕落した教会を、もう一度聖書が教える本来の信仰生活へと取り戻そうという運動でした。ルターは、こうした聖書の教えから逸脱した堕落の根本原因は、救いは善行により得ることができるというカトリック教会の教えにある、と考えました。詳論は避けますが、贖宥符も聖職売買も結局はその教えが原因となって生じた最も嫌悪すべき否定的な事例と考えることができます。
こうした問題を正す、聖書の本来の教えとしてルターが見出したのが、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」<ローマ書3章28節>という使徒パウロの言葉でした。彼はユダヤ教徒の中でも律法を実行することで完全を目指した「ファリサイ人」であったのですが、その完全を目指せば目指すほどかえって罪深い自分に出会わざるを得ませんでした。そこから出てきたパウロのこの言葉に、修道院で同じ経験をして苦しんだルターも心から賛同し、これこそがキリスト教信仰の真理を言い表わす言葉であると宣言したのです。これをルターによる「福音の再発見」と言っています。

 ルターが見出した以上のパウロの教えをプロテスタント教会では、信仰により神に義と認められる、という意味で「信仰義認」の教えと言い慣わしてきました。そこで、誰もがもつ問いは、この教えは主イエスから来ているものなのか、また、律法の善行とは異なる「信仰」ということの内実は何か、ということだろうと思います。もしこれが主イエスにつながる教えでないならば、キリスト教としては大変おかしなことですし、プロテスタント教会の信仰の土台はその足元からグラつくことになります。信仰義認は主イエスに由来する教えなのでしょうか。また、「信仰」がただ無意味に「信じます、信じます」と繰り返すだけのことでないとすれば、そこにどんな在り方が求められるのでしょうか。
結論を言えば、これは確かにパウロが主イエスから心底の賛同をもって受け止めた教えだと言うことができます。そう言える根拠の一つに、主イエスが当時のユダヤ教に蔓延していたいわゆる「律法主義」の態度を強く批判されたということがあります。それは例えばマタイ福音書23章に明瞭に示されています。ただ、主イエスはそこで「信仰により神に義と認められる」といったパウロのような表現は用いておられません。しかし、注意して福音書を読みますと、<ルカ福音書>で一箇所だけ「義とされる」<18章14節>という言葉を用いておられる譬があります。そして、その譬を読むと、そこに明らかに、パウロやルターが受け継いだであろう、主イエスご自身の「信仰」の理解が示されているのです。ただ「信じます、信じます」と繰り返すのではない、本当の「信仰」者の在り方が示されています。

 その譬とはファリサイ人と徴税人の神殿での祈りを取り上げた主イエスの譬です。ファリサイ人は「私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と、自分が律法をいかによく守っている優等生かということを神さまに伝えています。これに対して、徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を叩きながら」、「神さま、罪人の私を憐れんで下さい」と祈りました。そして、何と、主イエスは、神さまに「義とされた」のはこの徴税人のほうであった、と告げられるのです。この後に出てくる徴税人ザアカイもやはり人々から税を「だまし取っていた」<19章8節>と言っていますから、この徴税人も同胞から何かやましい税の取り立てをしていたのだろうと想像できます。罪の意識があったのです。そこで、彼の祈りは、ファリサイ人の自分を讃える祈りとは違い、自ら罪人であることを告白し、「こんな私ですが、神さま、どうぞ憐れんで下さい」と、赦(ゆる)しを懇願する祈りとなりました。そして、主イエスは、「義とされた」のは「この人」のほうだと宣言されたのです。
実は、こうした主イエスの宣言は、当時のユダヤ教の考え方からすれば、とんでもないことでした。もともと、「義とされる」というのは法廷用語で、「正しい者」とされる、無罪と判決される、という意味でしたから、律法を正しく守るということとは切っても切り離せない言葉であったのです。律法を守る善い行ないによって神に義と認められるということは、ユダヤ教にとって、当然の常識だったのです。
しかし、主イエスは、その建前と、その内実との、大きな(ギャップ)をよく承知しておられました。律法学者やファリサイ人たちの、自分たちは律法を完全に守っているのだという(うそぶ)きと、その律法厳守を人々にも強制し苦しめる、彼らの自己欺瞞に対して、主イエスはいわば宗教的な革命を敢行されたのです。その自己欺瞞の事実に目覚め、それを率直に認め、罪人が義とされるのは自ら罪人である人間の不完全なわざによってではなく、ただ聖なる神さまご自身によるその罪の(つぐな)いのわざによるしかない、と知るべきである、というのが、主イエスのその革命的な教えでした。そして、とうとう、最後には、ご自身が神さまの御心に従い、十字架上でその償いのための犠牲の献げものとなられたのです。
このことが私たちに教えているのは、罪の償いは人間わざでは不可能なのである、ということです。罪人である人間にできることは、自らの罪を素直に認め、悔い改めて、神さまからの尊い償いのわざを受け入れる謙虚な心をもつことだけなのです。ですから、使徒パウロが「信仰によって義とされる」と言う場合の「信仰」とは、先の徴税人のように、心から自分の罪深さを認め、それを悔い、そして神さまにひたすら赦しを祈り続ける心をもつ、ということに外なりません。もともと罪人である人間には自らを救いうる力などないのです。パウロは、そしてまたルターは、この「信仰」を主イエスから教えられ、受け止め、受け継いだのでした。

 先にパウロの<ローマ書3章28節>の言葉を引きましたが、<ガラテヤ書2章16節>にも「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」という殆ど同じ意味合いの彼の言葉があります。しかし、前者では「信仰によって」となっている箇所が、後者では「イエス・キリストへの信仰によって」となっています。ギリシア語原文では「ディア・ピストース・イエスゥ・クリストゥ」です。ここは現在の聖書の訳文のように「イエス・キリストへの信仰」と訳すのが常識的だと考えられます。しかし、英語に直せば、“through faith of Jesus Christ”であって、この属格ofを、「イエス・キリストに対する信仰」と対格の意味にではなく、「イエス・キリスト信仰」と主格の意味に取ることもできるわけです。そうすると、「信仰」と訳されているギリシア語の「ピスティス」は「真実(まこと)」とか「真心」という意味ももつ言葉ですから、この<ガラテヤ書>の言葉は「イエスキリストの真実によって義とされる」と訳すことも可能であるわけです。
そうすると、私たちは「信仰によって義とされる」という聖書の教えを、あらためて次のように言い換えることができます。すなわち、私たちが義とされるのは私たち罪人に対するイエス・キリストの「真実」によってである、と。罪人である私たちに対する神さまの恵みによって、そして、それを実現するため十字架でその命を差し出して下さったイエス・キリストの私たちへの愛の真実によって、私たちは「義とされる」のです。ルターの福音の再発見とはこのキリストの真実(ピスティス)の発見でもあったのです。