『新しく生まれ変わる』 4 からの続きです。

聖書:コリントの信徒への手紙II 5章17節, 3章17,18節

「未見のわれ」
 そして、この恵みのお招きは、私たちがどんな持ち場にあろうとも、年齢がどんなであろうとも、一切、区別・差別はありません。若かろうと高齢であろうと、神さまは気にされません。肉体的に若くても、精神的に老いている人もいます。相当な高齢であったはずのユダヤの国会議員ニコデモが「年寄りがどうして生まれ変われましょう」と言ったとき、主イエスの御言葉は「人は新たに生まれねばならないと言ったことに驚いてはならない。人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」というものでした<ヨハネによる福音書3章3、4、7節>。じつは、ネオスというギリシア語は肉体的に「若い」という意味でも頻繁に用いられた言葉でしたが、「生まれ変わる」というのはヤングになるというのではなくて、カイノス、フレッシュに変わり続けるということなのです。

 このことと関連して、白百合女子大学の学長もなさった、カトリックのシスター渡辺和子先生の言葉は、極めて印象的です。80歳を超えてもなお、日々「未見のわれ」が現れるのを楽しみにしていると、お書きになっておられます。年齢にかかわらず、いまだかつて見たことのない自分への期待をもつ。これこそ、神さまの霊による働きへのキリスト教徒の信仰です。

 また、この新しい生き方の希求は、ただ個人の範囲に留まることなく、その個人を取り巻く周囲にも広がるものでもあります。一人が変われば、周囲も変わります。ウェスレーは、キリスト教は社会的宗教だ、と言いましたが、それは、そのことを指しています。キリストの恵みによる新生と聖化は、自分の周りの部署にも、そして社会の全体にも広がっていかねばならないものなのです。

 自分でありながら、今までの自分になかったような新しいものが、自分のなかから現われてくる。そして、それが人を喜ばせ、神さまにも喜んでいただける、だから自分もつい嬉しくなる。聖書が知っている、こういう人間の救いの経験をとくに際立たせ、人々に大切なキリスト教のメッセージとして宣べ伝えたのが、繰り返しますが、伝道者ジョン・ウェスレーでした。

 最後に、このウェスレーのメッセージをじつにうまく日本人の五・七・五・七・七の韻に乗せて詠まれた歌をご紹介して終わりたいと思います。本日の聖句であります<コリントの信徒への手紙II5章17節>の「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」  という御言葉とともに、この歌を覚えていただくと、その御言葉の味わいがさらに増すのではないかと思います。 かつて銀座教会を牧された渡辺善太先生の信仰の短歌です。

 「今の俺、俺は俺でも、この俺は、キリスト知りし後の、俺でない俺」

 こうして、神さまは私たちをいつも、「未見のわれ」、「私なのに私でない私」を探す人生の旅に、招いて下さっております。