「裁く方は主である」 5からの続き
ある意味では、この「最後の審判」のゆえに、私たちは、信仰を与えられて後も、自ら神の御前に畏れ慄き続けると共に、またこの世の在り方についてもあるべき正しい方向を指し示され、希望を抱き続けるのです。私たち人間がこの世で人を裁いてならないのは、神もまた人を裁く御方ではないからだというのではなく、神のみが真の裁きを行ないうる唯一の御方であるゆえ
なのです。そこにキリスト教信仰の深い秘儀があります。
わが国で始まりました「裁判員裁判制度」に教会の教職が関わるのは望ましくないとカトリック教会が意見表明しました。その根拠は、カトリック教会の『教会法』が、聖職者が国家権力の行使に加担するべきではない、と教示しているから、ということだそうです。ここでも「裁き」自体は否定されているわけではありません。むしろ、そこに見て取れるのは、聖なる領域と世俗の領域の二分法という考えのようです。私自身は、この裁判員制度は従来に増して公共の事柄への市民の責任的参加を促し自覚させるものとして、自然なことなのではないか、裁判員への要請があれば、自分も一市民としてその重荷を負うべきではないか、と考えております。カトリック教会の意見表明にたいして少し神学的な理屈を言えば、教会の教職も一市民であり、その責務を他の方々と共に分かち合い、果たすほうがよい、と考えているわけです。「万人祭司性」というルターの教えのいわば裏返しです。
しかし、もちろん、こうしたことはこの世における倫理的判断の事柄であり、つまりは相対的な事柄であって、教職にたいしてもまた信徒の方々にたいしても信仰の事柄として一律の指示がなされるべきではなく、各自が自らの責任で判断すべきことだと考えます。
いずれにしましても、私たちがここで深く思うべきは、私たち人間が他者を裁いてはならないと聖書が教えるのは、神は裁きをなさらない御方だからそれに真似びなさい、というのではなくて、神だけが真の裁きを為しうる唯一の御方であるから、その究極の裁きにすべてをお委ねしなさい、と教えられているということです。そして、私たちキリスト教徒は、キリストの愛によって罪を赦された者として、むしろ隣人への愛のわざにこそ励むべきである、ということなのであります。
「裁く方は主である」 7 へ続く