「裁く方は主である」 4からの続き

 「人を裁くな」というこの主イエスの教えをとりわけ忠実に守ってこられたキリスト教徒たちが存在します。メノナイト派、フレンド派、アーミッシュ派と呼ばれる方々です。非暴力平和主義の人々でもあります。数年前、半年ほどアメリカにおりまして、テレビをとおして色々なニュースに触れましたが、学校内での銃の乱射事件というのが幾つかありました。アーミッシュの学校でもそうした青年の凶悪犯が外部から侵入し、死者が出ました。その時、犠牲者となった生徒たちを追悼する礼拝の後、私たちはけっして報復心をもちません、犯人の青年のためにも祈っています、とインタヴューに応える一人のアーミッシュの婦人の言葉を聞き届け、本当に驚くとともに、その信仰の確信に深い敬意を抱いたことでした。

 このようにキリスト教徒はこの世で生きるに際して、人を裁くということを強く戒められています。しかし、それでは、「裁き」ということそれ自体も、この世からなくなればよいのでしょうか。そうかも知れません。けれども、聖書は、私たち人間が人を裁いてはならないのは、私たちもまた罪深い者で人を裁く資格がないからであって、そもそもキリスト教には裁きということはあってはならないからだ、とは教えていません。

 キリスト教には「裁き」があります。ただし、それは人の罪を裁く唯一の資格をもった神ご自身による「最後の審判」です。『使徒信条』には、御子キリストが終わりの時に再び「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審き給わん」とあります。<ペトロの手紙II 4 章 5 節>は「彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」(口語訳)と申します。これがキリスト教信仰の確信の一つなのです。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂にミケランジェロが描いた偉大な絵の一つがこの「最後の審判」でした。「そんなオドロオドロしいイメージは暗黒の中世の時代までのことで、現代のキリスト教では流行らない」と言われる方が、キリスト教徒の中にもおられるかも知れません。しかし、それでよいのでしょうか。

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