「裁く方は主である」 3からの続き
これで私が何を言いたいかおわかりでしょうか。そうです、野球で判定を下すのは、選手ではなくて、審判なのです。選手がどんなにストライクと思っても、自分のほうが正しいと思っても、ストライクかボールかを、セーフかアウトかを決定するのは主審なのです。それと同じように、私たち人間を裁いて、最後にその人生への判定を下して下さるのは、私たちの主なる神であられるのです。「裁く方は主」なのです。
この説教のための聖書の箇所は<コリントの信徒への手紙I 4 章 1~5 節>ですが、使徒パウロにはこれと似た言葉が他にもあるのはご存知だと思います。
<ローマの信徒への手紙12章19~21節>の言葉です。そこには、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる、と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。…』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」、とあります。私はこうしたパウロの言葉に、彼はやはり、敵をも愛するアガペーの愛を教えられたイエスの真実な弟子の一人であったのだと、感じ入っている者です。
「復讐するは我にあり」<申命記 32 章 35 節>という旧約聖書の言葉は、よく法廷を取材しておられる佐木隆三さんという作家の直木賞受賞小説の表題にも用いられておりますが、復讐どころか裁くことさえも、私たちは主イエスの教えによって強く戒められているわけです。次の言葉もよくご存知だと思います。「人を裁くな。…あなた方は自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」<マタイによる福音書 7 章 1~ 3 節>。大学のキャンパスでも、学生たちが「お前にだけは、言われたくないよ」と、よく言っております。私たちは人を裁く資格のない、自分自身も神のみ前に大いなる罪人でしかないのです。
「裁く方は主である」 5 へ続く