「心の眼で見た言葉」 6からの続き
星野さんは、折れても、もう一度芽を出し花を咲かせた菜の花のなかに、自分を見ておられます。
はなきりんを見て、このように詩っておられます。
「動ける人が
動かないでいるのには
忍耐が必要だ
私のように動けないものが
動けないでいるのに
忍耐など必要だろうか
そう気づいた時
私の体をギリギリに縛りつけていた
忍耐という棘のはえた繩が
゙ フッ〟と解けたような気がした」
はなしょうぶは、このように見えました。
「黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なぜ きれいに咲けるのだろう
私は大ぜいの人の愛の中にいて
なぜ みにくいことばかり
考えるのだろう」
世話をなさるお母様に向かって悪態をつかれたこともあったそうです。
れんぎょうの花を見て、こう思われました。
「わたしは傷をもっている
でも その傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる」
星野さんの詩は「心の眼」で花々を見つめた詩のように思えます。こういう言葉のことを信仰者の言語表現すなわち宗教的な言語と言ってよいのではないしょうか。 (続く)