「心の眼で見た言葉」 4からの続き

要するに、「芥川の小説は本棚の一番上にある」という場合、実際にそれは眼に見えるし、それに触れることで実在が確かめられるから納得がいくが、クリスチャンが「義人の魂は神の御手のうちにある」などと言うのは意味がよくわからないし、聖書の奇跡物語などは絵空言のようで信用できない、というのが、「検証の原理」派の意見なのですが、そうではなくて、ヴィトゲンシュタインによれば、例えば聖書という宗教の経典がそうした言葉遣いでどういうことを言おうとしているのかを理解できることが大切だ、ということなのです。そして、それを理解できるというのが、人間が成熟しているしるしなのです。文学者には文学者の言葉遣いがあり、自然科学者には自然科学者の言葉遣いがあるわけですが、宗教者にも宗教者の言葉遣いがあるわけです。

宗教の言葉、『聖書』にしるされている言葉、これをキリスト教徒は「神の言葉」と呼んでいますが、それは肉眼ではなく「心の眼」で人や物事の奥底にある真実をとらえたときの言葉と言うことができるでしょう。サン・テグジュベリが『星の王子さま』のなかで「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、眼に見えないんだよ」と言っています。宗教的言語とは肉眼ではなく「心の眼」でものごとの深い部分、本質をとらえたときの大人の言語表現なのです。聖書もまた、そうした宗教的言語でしるされた書物なのです。
(「心の眼で見た言葉」 6へ続く)