あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
<申命記 7 章 6 ~ 8 節>

 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
<1コリント書 1 章 26 ~ 29 節>

 

 娘がまだ小学校低学年の頃、家のなかですることで、戸惑ってしまうことがありました。彼女は玄関とか洗面所に小さい石ころや花を置いて飾るのです。私から見れば、それほど綺麗でもない石ころや花が置かれるのです。花はまだいいのですが、つまらない石ころのどこがいいんだろうと思います。それでも、本人にとっては大切なものらしいのです。山や海、湖などに出かけた折に拾ってきた、本人にとっては素晴らしい、かけがえのない石を飾っては、満足するらしいのです。私にしてみれば、取るに足りない石ころのどこがよくて、飽きもせずに飾るんだろう、と思うわけですが、本人に言わせれば、「だって好きなんだもの」ということになるわけです。

 しかし、よく考えてみますと、一見つまらないと思えるものを宝のようにして大切にするこの娘の態度は、聖書の神さまが私たちを愛してくださるときの、その態度に似ているのではないかと思わされます。それ自体はどう考えても世間の人々が認めてくれるような価値ある存在ではないのに、あえてそれを自分の宝として愛する態度、これこそ神さまが私たち人間を愛してくださる態度なのです。

続く