西谷幸介牧師
「しじまの声を聞く ~ 礼拝とは何か」 3 からの続き

 さて、もう一つ思いを巡らしたいのは、< 列王記上 19 章 12 節 > の言葉です。新共同訳でもう一度お読みしますと、「地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」という言葉です。ここで「静かにささやく声」と訳された原語は「かすかな沈黙の声」とも直訳できる言葉です。この説教の題の「しじまの声を聞く」もここから取りました。「沈黙」の大和ことばが「しじま」です。

 この「しじまの声」を聞いたのは、紀元前 9 世紀初めに登場したイスラエルの預言者エリヤという人でした。彼についてはまた説明しますが、それにしても「沈黙の声を聞く」というのは、どういうことでしょうか。逆説的でわかりにくい表現です。しかし、それは、その声を聞く者がまず沈黙する、そしてその沈黙の中で心静めてそのかすかな声に耳を澄ます、というふうに理解してよいかもしれません。20 世紀ドイツのマックス・ピカートという哲学者が、喧騒な生活に慣れてしまった現代人にとって大変示唆に富む『沈黙の世界』(原書 1948 年;佐野利勝邦訳、みすず書房刊、1964 年)という書物をしるしました。そして、その中で、沈黙と言葉との関係を論じて、次のように述べています。なお、ここで「精神」と訳されているドイツ語 “Geist” は、聖書では「聖霊」を表わす言葉でもあります。

 「言葉は沈黙から、沈黙の充溢から生じた。…言葉はそれに先立つところの沈黙によって是認され、正当化されているのである。なるほど、言葉に正当化の証明を与えるのは精神であるが、しかし、言葉に先立つ沈黙は精神がそこで働いていることの徴なのだ。つまり、精神は産出力を孕んだ沈黙から言葉を取り出してくるのである。…言葉は沈黙から生ずる。実際、言葉は沈黙の裏面なのだ。同様に、沈黙は言葉の裏面なのだ」。

続く