「しじまの声を聞く ~ 礼拝とは何か」 2 からの続き

 そこで、「汝ら、静まりて、我の神たるを知れ」という < 詩編 46 編 10 節 > の言葉を考えてみたいのですが、この言葉は、まず神さまのみ前に私たちが静まってその言葉に聞き入るという態度を指示しています。やはりそのことが礼拝に臨む私たちの基本的な姿勢であるということでしょう。礼拝の第一の目的は出席者一人びとりが神さまに接することであり、日曜日の教会で挨拶なども含めて人としての交わりも大切なことではありますが、礼拝そのものに比べればそうしたことは二の次の事柄なのです。ですから、互いにそのことを心得つつ、挨拶や会話は原則としては礼拝堂の外で済ませるほうがよいでしょう。しかし、戸山教会の建物の形状を考慮しますと、そうもいかないかもしれません。そうだとしますと、礼拝堂で挨拶や会話をするにしましても、少なくとも礼拝開始時刻の 5 分前には、各人が静かに着席し、礼拝への心備えをしたいものだと思います。

 ところで、この < 詩編 46 編 10 節 > は、かつての文語訳や口語訳の聖書では「静まれ」と訳されていました。伝統的な英語の聖書でも、“Be still”と訳されており、同じです。ただ、現在の新共同訳聖書では「力を捨てよ」となっています。新改訳聖書では「やめよ」と訳されています。そのようにも訳しうる原語なのです。直前の 9 節は「主は地の果てまで戦いをやめさせ…戦車を火で焼かれた」となっています。アッシリアとの戦いで武器を取ろうと必死になっていたエルサレムの人々に、「やめよ、わたしこそ〔戦いを収める〕神であることを知れ」というのが 10 節です。このように新改訳では同じように「やめる」という言葉で訳されていますが、9 節の動詞シャバトは「安息させる」、10 節の動詞ラーファーは「断念する」というのが原意です。

 ですから、10 節の「汝ら、静まりて、我の神たるを知れ」という言葉は、自分が力を込めて関わっていることから一旦離れ、それを中断して、全知全能の神に絶対的な信頼を寄せ、心の静寂さを取り戻して、神の前に詣でなさい、という意味に解することができるのです。緊急事態と思う戦争の最中であったとしても、それも含めて、私たちが関わっている(=関心をもっている)すべてのことをまずは一切断念し、神さまに、とりわけその御言葉に集中し、まずそこから私たちの生きる本来の意味と力とをいただきなさい、ということなのです。

続く