「裁く方は主である」 1

*この戸山教会の週報の第 4 面とホームページに説教を掲載させて頂いています。実際に説教として語ったものですが、かなり長いものもあり、しかも今回のように「審判」という神学的論題を意識的に扱ったものもあります。そこで、今回は、試験的にですが、「説教」とせず、「説教的神学講話」Sermonical Theological Essay と題させて頂きました。

「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」。

コリントの信徒への手紙II4 章 1~5 節 口語訳聖書:以下はすべて口語訳から引用

今朝の聖書は、使徒パウロがキリスト教徒間の「裁き」、「裁判」について語っている箇所です。6 章を見ますと、明らかにコリント教会では信徒どうしが世俗の裁判に訴えたということがあったようです。パウロはキリスト教徒の間で「裁判ざたがあること自体、あなた方の負けです」と断じています。「あなた方の中には兄弟を仲裁できるような知恵ある者は一人もいないのですか」と問うています<6:5~7>。

 そして、この 4 章では、パウロはキリスト教徒の「裁き」をめぐる究極の心得を宣言しています。それが、「裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」という教えです<4:4~5>。

 わが国でも「裁判員裁判制度」が実施され始めてもう 10 年になります。
カトリック教会はその「教会法」の解釈から、聖職者は過料を払ってでもこれに関わるべきではない、という立場を表明しました。そうしたことも覚えつつ、今朝は使徒パウロの言葉から、キリスト教的な「裁き」についての根本的な教えを確かめ味わってみたいと思います。
「裁く方は主である」 2 に続く)